BMWの誇る超レアなスーパーカー M1を徹底解説
更新日:2024.09.09
※この記事には広告が含まれます
BMWのモータースポーツ関連の事業を行うM社が手がけた市販モデルは、通常、Mの文字とシリーズを表す数字が組み合わせられています。例えば、M3は3シリーズがベースで、M6は6シリーズがベースとなります。しかし、かつてその法則から外れたネーミングを持つ、M1というスーパーカーが存在していたことをご存じでしょうか。
文・西山昭智
文・西山昭智
1978年のパリサロンでデビュー
M1という名前から、BMWのボトムグレードである1シリーズをベースにしたMモデルかと思われがちですが、その実態はまったくの正反対。BMWの誇るスーパーカーとしてデビューしたのがこのM1という車です。
1978年のパリサロンでお披露目されたBMW製スーパーカーは、エンジンをミドシップにレイアウトする方式を採用。それまでミドシップを量産したことがなかったBMWは、一部製造をランボルギーニに委託することになり、担当したのはあのランボルギーニ ミウラの生みの親でもあるジャンパオロ・ダラーラだったといわれています(のちにランボルギーニとの提携は解消)。
さらにスタイリングは数多くのスーパーカーを手がけてきたジウジアーロ率いるイタルデザインが担当。この最強タッグの組み合わせによって、BMW初となるスーパーカーの開発が行われました。
1978年のパリサロンでお披露目されたBMW製スーパーカーは、エンジンをミドシップにレイアウトする方式を採用。それまでミドシップを量産したことがなかったBMWは、一部製造をランボルギーニに委託することになり、担当したのはあのランボルギーニ ミウラの生みの親でもあるジャンパオロ・ダラーラだったといわれています(のちにランボルギーニとの提携は解消)。
さらにスタイリングは数多くのスーパーカーを手がけてきたジウジアーロ率いるイタルデザインが担当。この最強タッグの組み合わせによって、BMW初となるスーパーカーの開発が行われました。
BMW TURBO 2000がベースに
心臓部には、3.5L 直列6気筒エンジン。シャシーは、セミスペースフレームを採用。ボディをFRPで形成されたM1のスタイリングは、1972年のパリサロンで発表されたBMWターボ2000(コンセプトカー)を彷彿とさせるウェッジシェイプデザインで、中央にはおなじみのキドニーグリル、ヘッドライトはリトラクタブル式が採用されています。
サイズは、全長4,360mm×全幅1,824mm×全高1,140mmとロー&ワイドなスタイルで、ミドシップに搭載されたエンジンの上にはルーバーを配置、リアエンド左右にはそれぞれBMWのロゴエンブレムが配されています。
M1は、もともとグループ4に参戦するためのホモロゲーションとして開発されたものでしたが、実際にはホモロゲーションの条件となる「連続する24か月の間に月間400台の生産」をクリアすることができませんでした。
スペースフレーム構造やミドシップレイアウトなど、量産には向かない複雑な生産工程がその理由だったといわれています。
サイズは、全長4,360mm×全幅1,824mm×全高1,140mmとロー&ワイドなスタイルで、ミドシップに搭載されたエンジンの上にはルーバーを配置、リアエンド左右にはそれぞれBMWのロゴエンブレムが配されています。
M1は、もともとグループ4に参戦するためのホモロゲーションとして開発されたものでしたが、実際にはホモロゲーションの条件となる「連続する24か月の間に月間400台の生産」をクリアすることができませんでした。
スペースフレーム構造やミドシップレイアウトなど、量産には向かない複雑な生産工程がその理由だったといわれています。
希少性の高さも魅力のひとつ
結局M1は、1982年をもって生産が終了され、それ以降BMWがスーパーカーを手がけることはありませんでした。
しかし、いま見てもまったく色褪せない魅力に包まれており、生産台数も450台ほどの希少性も相まって、BMWフリークだけでなく往年のスーパーカーマニアからも特別な1台として認められています。
しかし、いま見てもまったく色褪せない魅力に包まれており、生産台数も450台ほどの希少性も相まって、BMWフリークだけでなく往年のスーパーカーマニアからも特別な1台として認められています。
西山昭智
大学卒業後自動車雑誌の編集部へ入社。アメリカ車を皮切りに輸入中古車やスーパーカー専門誌の編集部を経て独立。現在も紙媒体の自動車雑誌で編集および執筆を行なっている。正規販売ディーラーや中古車専門店などに取材を行なうことが多く、現場でしか聞けない業界の裏話的なものも取り扱い中。好きな車はフランス車。