あの人への手紙

8月も半ばになると、照りつける日差しも、ひそかに夏の終わりを忍ばせる。夏の終わりの予感は、同時に亡き人たちへの郷愁を呼び起こす。もう二度と会うことの叶わない人たち。生きていたら伝えたかったこと、生きていたら聞いてみたかったこと。みな、たくさんの想いを胸に抱いている。もう決して届くことはないけれど、亡きあの人へ手紙にしたためてみよう。思いのたけを込めて。

text:嶋田智之、後藤 武、今尾直樹、岡小百合 photo:磯部孝夫、長谷川徹 [aheadアーカイブス vol.177 2017年8月号]

Chapter
あの人への手紙
謹啓 エンツォ・フェラーリ様
拝啓 小野かつじ様
Dear Bobby ─小説『ボビーに首ったけ』─
拝啓 天国の浮谷東次郎さま

あの人への手紙

XV走行 森の中

●SUBARU XV
車両本体価格:¥2,678,400(税込、2.0i-S EyeSight、AWD)
排気量:1,995cc 
最高出力:113kW(154ps)/6,000rpm
最大トルク:196Nm(20.0kgm)/4,000rpm

謹啓 エンツォ・フェラーリ様

アヘッド エンツォ・フェラーリ

▶︎エンツォ・アンゼルモ・フェラーリ
1898〜1988年。イタリアの自動車メーカー、フェラーリの創設者。アルファロメオのテストドライバーを経て、レーシングドライバーとしてワークス入りし、1929年に仲間とともに共同出資によりスクーデリア・フェラーリを設立。アルファロメオのセミワークスとして活動を始める。

長男ディーノの誕生を機にマネジメントに専念する。戦後、フェラーリは自動車製造会社として再出発した。公の場にほとんど姿を見せなくなった晩年もイタリアでは「北の教皇」と呼ばれるほど絶大な影響力を持ち続けた。


日本では蝉の合唱があちこちで響き渡り、F1グランプリはシーズンの折り返し地点を過ぎ、あなたが一生涯こだわり続けたフェラーリF1チームは、今年は復調して久しぶりにチャンピオンを獲りそうな勢いです。盛夏、ですね。

早いもので、あなたが天に召されて、この8月14日で29年。毎年この頃になると、あなたを想うことが多くなります。今年はあなたが興したフェラーリ社が創立70周年を迎え、各国での催しが例年以上に賑やかだから、なおさらです。とっくに御承知でしょうけど、フェラーリ製のスポーツカーも、フェラーリのモータースポーツでの戦いぶりも、相変わらず世界中のファン達を熱狂させています。

考えるまでもなく、全てあなたが成し遂げたことです。あなた亡き後のフェラーリも、その延長上にあるようなもの。ひとりのレーシング・ドライバーがレーシング・チームを作り、戦後の復興期にそれを基盤としたスポーツカー・メーカーへと発展させ、レースの分野でも市販スポーツカーの分野でも事実上のトップ・オブ・トップへと登り詰め、世界で知らぬ者のない存在へと育て上げた。

そんなことができたのは、あなただけです。自動車業界にありながら、イタリア国内では〝北の教皇〟と呼ばれるほどの影響力を持ち、亡くなったときに国全体が喪に服したのも、あなただけでした。

あなたは御健在だったときから数々の伝説を生み出して、自動車業界でもレース界でも偉人と呼ばれていました。僕は若かった頃、あなたについて書かれた書物をずいぶんたくさん読みました。クルマ好きとしても自動車雑誌の編集者としても興味深く感じた成功譚やエピソードが山ほどありましたが、意外だったのは、多くの著者のあなた自身を形容する言葉でした。

強引、苛烈、冷酷、冷徹、尊大、自己中心的─。そこから受けた印象は、申し上げるまでもないでしょう。けれど、若さは馬鹿さで、しばらくはそれを真に受けたままでしたが、あるとき、ふと考えちゃったのです。失礼ながら、そんな嫌な人の元にたくさんの人が集まるものだろうか? 成功を手助けするものだろうか? と。その疑問が、12年前に僕をイタリアへと渡らせたのでした。

あなたが暮らしたモデナや仕事場のあったマラネロの街で、僕はあなたをよく知る人達を訪ねました。あなたの秘書だった方々、あなたの会社の財務担当だった方、あなたの作るクルマに速さを与えたエンジニアや美しいフォルムをもたらしたデザイナー、あなたのチームのメカニック、あなたがよく立ち寄ったお店の御主人、毎日のように祈りを捧げにいっていた教会の神父様─。

あなたと親交のあった皆さんが異口同音におっしゃっていたのは、あなたは確かに物凄く厳しい人で、それ以上に御自身に対して厳しくて、信念がとても強く、負けるのが嫌いで、だけどよく笑う人で、周囲の人にはとても温かく、人知れず細やかな気配りをして、本当に優しい人だった、というようなことでした。

アヘッド フェラーリ

皆さん、本当に色々なことを話してくださいました。24歳で夭逝してしまったあなたの長男、アルフレッドさんの愛称〝ディーノ〟を冠した小さく美しいスポーツカーに、〝フェラーリ〟のバッジをつけなかった本当の理由。事故に散ってしまったあなたのチームのドライバーの御家族に、匿名で長年お金を送り続けていたこと。

フェラーリのミニカーを買ってもらえずに泣いていた見ず知らずの子供にそれを買い与え、「大きくなったらこれの本物が買えるように頑張るんだぞ」と笑いながら慰めて、名乗りもせずに立ち去ったこと─。数々の書物に記されていたのとは全く別の人のようでした。

その疑問を解いてくださったのは、あなたの右腕だったフランコ・ゴッツィさんの言葉です。「フェラーリは常に強くなければならなかったし、大きくなっていかなければならなかったんだ。そういう会社を牽引するには、どういう人物が相応しいと思う? 彼はね、〝もうひとりのエンツォ・フェラーリ〟を自分自身で創り出して、完璧に演じきったんだよ」

そういえば今年は、あなたにとっての遺作のような存在であり、フェラーリ史上最も凶暴で最も愛されている、F40の生誕30年の年でもあるのでしたね。その新車発表の催しのときの、古い写真を見つけました。一緒に写っているあなたの次男のピエロさんは、今、同い年くらいだったときのあなたの生き写しのようです。

ピエロさんにお会いしたことはないのですが、あなたと親しかった方々は、あなたがアルフレッドさんに対してもピエロさんに対しても、愛情はたっぷりあるくせに父親としては大変に不器用だった、とクチを揃えていました。スポーツカーの歴史を変えた偉人にも想いのままにできないことがあったのですね。

とりとめのないことばかり連ねましたが、そう、きっと僕はあなたに憧れてるのでしょうね。知ろうとすればするほど信念を最後まで曲げずに貫き通したことが判って、そういうあなたに尊敬の念を抱き、同じ男としてそういう生き方をしたいと願ってるのでしょうね。あなたのような偉業を自分が成せるとは思ってもいないけど、せめて心に秘めた想いの火を消すようなことをせず、これから先の人生を歩いて行くことにします。

全てのクルマ好きに大いなる夢と希望を、そして僕自身には色々と考える機会をたくさん与えてくださって、ありがとうございました。心から感謝を申し上げます。

敬白

(左)向かって左はエンツォ(右から2番目)の長男、“ディーノ”ことアルフレッド。幼い頃から筋ジストロフィーを煩い、1956年に24歳の若さで亡くなった。
(右)1987年に発表したばかりのF40の模型を手にエンツォと語らうのは、次男のピエロ・ラルディ・フェラーリ。現在もフェラーリの副会長を務めている。

アヘッド フェラーリ F40

■フェラーリ F40
1987年にフェラーリ創業40周年を記念して製作されたF40は、「そのままレースに出られる市販車」を具現化したリアミドシップ、後輪駆動の2シータースポーツカー。市販車で最高速度320㎞/hを超えたのはF40が初めてだと言われている。当時89歳だったエンツォ・フェラーリが、その生涯最後に自身で発表した遺作としても有名。バブル経済真っ只中の日本では、新車価格の5倍以上の2億5,000万円で取引されたこともあったという。

--------------------------------------------------
text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

拝啓 小野かつじ様

アヘッド 小野かつじ

▶︎小野かつじ/KATSUJI ONO(1942-2001)
モーターサイクル・マガジン『クラブマン』初代編集長。オートバイをこよなく愛した、根っからのバイク乗り。クラブマン創刊以来、世界中のキラ星のごときクラシック・バイクを走らせ、デイトナのバトル・オブ・ツインズを日本に広く紹介し、自らマン島のレースにも出場。オートバイの深遠なる世界を人々に伝えた。


小野さんがいなくなってもう16年が過ぎました。実を言うと最初にフェリーで行方不明になったと聞いた時、僕達は心配しなかったんですよ。

「どこかに隠れて様子うかがっているんじゃないか」とか「あの人が死んだりするわけがない」なんて言ってました。たぶん小野さんが死んでしまうなんて認めたくなかったんでしょうね。

僕は小野さんに会うまで学校や会社で先輩達の言うことを聞かない困ったヤツでした。だから『クラブマン』に入った当初は小野さんとぶつかってばかりでした。小野さんもことあるごとに僕のやっていることに文句をつけていましたよね。

『クラブマン』が100号の記念号を作っている時、僕は自分のバイクに関しての原稿を書きました。そうしたら突然「見せてみろ」って言って原稿持って行ってしまったんです。そんなことしたの覚えています? 

椅子に踏ん反り返って机に足を放り出して原稿読んでいる小野さんのことを「このオヤジ、次は何にケチつけるつもりなんだ」って睨んでいました。そしたら「ゴッちゃんの原稿は夢があっていいな」と言ってポンと投げ返したんです。やっと認められてメチャクチャに嬉しかった。そしてバイク雑誌で生きていこうと決めました。あの一言で僕の人生が決まったんです。

あれ以降、小野さんの話を真剣に聞くようになりました。そして破天荒な考え方とパワフルな生き方を見て「この人には勝てないな」と思うようになりました。男として尊敬していましたよ。生きている時にはそんなこと恥ずかしくて言えなかったけど。

今でも覚えているのは「不細工なものはダメだ」という小野さんの口癖です。僕が入社する前、某メーカーがやった新車発表会の質疑応答で小野さんは「なんでこんな不細工なもの作ったんですか?」と聞いたらしいじゃないですか。おかげで僕が入社した頃、そのメーカーの新車発表会に呼んでもらえませんでした。でも、そういう考えを曲げない部分、本当に凄いよなと思ってました。

デザインだけじゃなくて生き方とかものの考え方とか、すべてに関して「不細工」なものを徹底して嫌っていましたよね。本作りもまったく同じ。でもそれが良かったんだと思います。『クラブマン』は小野さんのダンディズムがあってこそ成立した本で、そのコンセプトがああいう分かりやすい言葉で伝えられていたから全員迷うことなく同じ方向を向いて本を作ることができたんでしょう。

今、うちの事務所には20代の若いヤツが一人います。人から指図されるのが大嫌いで何か言うとすぐに突っかかってくる。でも反面わからないところは素直に聞いてきてアドバイスをするとそれを確実に生かすことができる。30も歳が離れているのにバイクや仕事のことを真剣に何時間も話したりします。

気がついたら僕はあの頃の小野さんと同じくらいの年齢になっていて、当時の自分みたいな生意気なヤツを教えているというのがとても不思議な感じがします。小野さんはあの頃、僕にこんな風に接してくれていたんだな、って思うと生意気なヤツにもイライラしないで話ができます

小野さんは僕と同じくらいの年齢で色々なことにチャレンジしていましたよね。誰もやっていないバイクのウェブマガジンをスタートさせようなんて考えてたんだから本当に先見の明があった。僕も今、色々なことをやっているんですがなかなか上手くいきません。

時々行き詰まって無性に小野さんに相談したくなることがあるんですよ。でもたぶん「ゴニョゴニョ考えてないで自分がやりたいこと思い切りやるしかないだろ」って言うんだろうなぁ。生きている時からそんな答えしか聞いたことなかったし。そんな時、「じゃあ思い切り自分らしくいくことにします」って報告すると、僕は迷いが吹っ切れて少し元気になれる気がします。

小野さん、実は今、当時のクラブマンスタッフ達と『クラブマン』を復刊させるために動きだしました。昔、小野さんに言われたこと一つずつ思い出しています。見守っていてください。大丈夫。不細工なことだけはしないようにしますから。        

敬具

アヘッド Classic Feeling

2001年に出版された「Classic Feeling」は、クラブマンの創刊号(1986年12月)から44号(1990年3月)までの小野勝司のクラシックバイク記事をまとめた内容。BSAやノートンといったイギリス車から、イタリアやドイツ、日本のクラシックバイクまで34台を取り上げている。

HAROLD’S GEARやNEW COCEPTER、Seta、NEFヘルメットなど、ファッショナブルなライディングギアを纏った小野勝司の格好良さは、ライダーが高齢化した今こそ見習いたい。

-----------------------------------------
text:後藤 武/Takeshi Goto
1962生まれ。オートバイ雑誌『CLUBMAN』の編集長を経て、現在は世界を股にかけるオートバイ、クルマ、飛行機のライター&ジャーナリスト。2ストと言えばこの人、と言われるほど、2ストを愛し、世界の2スト事情に精通している。

Dear Bobby ─小説『ボビーに首ったけ』─

アヘッド 太陽

行きつけのバーのカウンターで、これを書いています。60年代あたりからのブラック・ミュージックばかりをかける、雰囲気の良い一軒です。リクエストが入ったのか、今日はシャーデーばかりが流れています。人生の機微が織り込まれた絹のような彼女の歌声と、切ない旋律に包まれながら、あなたに手紙を書いているのです。そう考えただけで、何だか泣けてきます。

少し汗をかいたグラスの中には、綺麗に透き通った氷とギムレットハイボール。あなたへの手紙を書くのだと伝えたら、マスターが作ってくれました。「サーフィンとバイクを愛したあいつも、あの世ですっかり大人になっているはずだから、いつまでもバドやコロナだけじゃ落ち着かないだろう」  マスターはそんなことを言いました。

ギムレットハイボールが片岡義男の小説に登場したことはない。カウンターの中央に戻りつつそんなことも呟きながら、照れ笑いを浮かべもしました。なに片岡に挑んでんだよ。居合わせた常連が、軽くはやし立てています。

あなたにとってこれは突然の、知らない人からの手紙に違いありません。咲美さんから届いた初めての手紙と同じように。けれど咲美さんと同じく、私はあなたを知っています。マスターも。ここの常連も。みんな知っているのです。特に、片岡義男の筆によってあなたがこの世に生まれた頃に、青春を過ごしていた世代は、みんな。

赤い背表紙の文庫の中に、カリフォルニアから太平洋をわたってくる風を感じて大人になったのです。本の中に横たわっている、さらさらとした白砂みたいにドライで、爽やかで、どこまでも美しい刹那を追いかけつつ、そうはならない現実のかっこ悪さを噛みしめながら、学校に通っていたのです。人並みの将来を、ことさらに希望する親に反発する気持ちを胸に押し込め、毎朝、制服のボタンをとめていたのです。

だから制服のボタンをはずすどころか、ちぎるような方法を、さらりと自然にクールに、こともなげにやってのけるあなたに対して、大きな憧れと少しのジェラシーを抱いたものでした。16歳の夏休みに敢行したという、日本半周ロングツーリング。親の目を盗み、始めたサーフィン。学校をさぼってのアルバイト。そして家出…。

否、人並みではないことを厭わないあなたに対して、だけではありません。私たちと同じように普通の名もなき人間であったはずのあなたの、日常にまぶされていたエッセンスに対しても、です。いえ、むしろそちらの方が、憧れとジェラシーの対象としては大きかったのかもしれません。

たとえば、洗いざらしのジーンズ。あるいは素足にスニーカー。ブルーのヤマハRD250。アルバイト先だった海辺のカフェのたたずまい。オープンサンドイッチの味。ビーサンであぜ道を歩く、波乗り帰りのあなたの背中。ロングツーリングの話に感動し、勇気を出して長い手紙を書いた見知らぬ女の子に対する、たった3行の返事。

バイクはバイク、サーフィンはサーフィンとして棲み分けられるのが当たり前だった当時の風潮にあって、サーフ&モーターサイクルの生活を当たり前のように過ごしていた日々、そのもの。「ボビー」というニックネーム…。そうした一粒一粒のピースこそが、きっと青春をきらめかせてくれる魔法なのだと、信じずにはいられなかったのです。

一粒一粒を手に入れることはできても、集合体としての「ボビー」にはなれない。そんな思いでいた多くの青年たちが、けれども自分もまたボビーであると心を震わせることができる瞬間も、あなたは教えてくれました。

バイク、です。タンクを膝ではさみ、ハンドルを両手で握り、シャツに風をはらませながらバイクで走る時の、圧倒的な疾走感。光を追いかけ、並走し、風をかきわけながら進む描写を読み進むうちに、文字を追いかける目の動きにも自然とスピードが増しているのです。

片岡小説を読む時は、いつもそうなのです。自分でもバイクに乗るようになってからは、五感に突き刺さるすべてを身体ひとつで受けとめて大地を移動する、あの何ものにも換えがたい感覚が鮮やかに身体の内に甦ることに気づきました。その共犯意識みたいなものこそが、実は片岡小説の醍醐味ではないかしらん? それは実に素敵な気分です。ボビーにも咲美にもなれなくとも、この人生、悪くない。そう感じるに十分なほど。

あなたはバイクを走らせながら、鮮やかな刹那を突然断ち切られることになったのですね。どんなに無念だったかという思いよりも、あなたの短い人生の一瞬一瞬のきらめく美しさの方が強く心に残っている。そんなことを言うのは、あまりにも無責任なことでしょうか?

やっぱりねえ、やつはまだギムレットハイボールを飲んだことはないと思うんだよ。グラスが空いたのを見計らって2杯目を作ってくれたマスターが、そう言いました。彼もまた、どうやらずっとあなたのことを、思い出していたようです。外には生ぬるい風が吹いています。今年もボビーの夏が、やってきました。

ボニーに首ったけ

Bobby/ボビー
片岡義男の小説『ボビーに首ったけ』(1980年、角川書店)の主人公。舞台は鎌倉。バイクとサーフィンに夢中の高校3年生。高校2年の秋に友人と九州までツーリングに出かけた体験談を雑誌に投稿したところ採用され、それを読んだ岡山県の中原咲美から手紙が届く。バイクとサーフィンと咲美との交流が軸となった、ボビーの短い夏の物語。

アヘッド ヤマハRD250(初期型)

■ヤマハRD250(初期型)
1973年に発売が開始されたRD250は、’76年にモデルチェンジされ、角タンク仕様となる。その後’79年には、丸みを帯びたデザインに変更、翌年RZ250にバトンを渡した。

物語の中で「ボビーが乗ったのは、モデル・チェンジする以前のRD250だ」とあるので、小説が出版された1980年を基点に考えて、角タンク仕様がボビーのRD250だと思われている。しかし実際に小説が書かれた時期や他の片岡作品の風潮を鑑みると「モデル・チェンジする以前」は、初期型のことを指すのではないかと推察される。

---------------------------------------
text:岡小百合/Sayuri Oka
大学卒業と同時に二玄社に入社。自動車雑誌『NAVI』で編集者として活躍。長女出産を機にフリーランスに。現在は主に自動車にまつわるテーマで執筆活動を行っている。愛車はアルファロメオ・147(MT)。40代後半にして一念発起し、二輪免許を取得した。

拝啓 天国の浮谷東次郎さま

アヘッド 浮谷東次郎

▶︎浮谷東次郎/Tojiro Ukiya
1942年、千葉県市川市に生まれる。1957年に市川・大阪間、往復1,500kmのバイクツーリングを敢行。1960年に渡米、3年後に帰国し、レーサーとして鮮烈なデビューを飾る。1965年8月20日、鈴鹿サーキットで練習中に、コースに侵入した人を避けようとしてコース脇に激突。還らぬ人となる。享年23。著書に『俺様の宝石さ』(筑摩書房)他。


安らかにお眠りのところ、突然、ファンレターを送りつけるご無礼をお許しください。

私の手元に東次郎さんのご著書『俺様の宝石さ』(筑摩書房)があります。1972年に発行された初版で、私が80年代に古本屋で見つけて買ったものです。

アメリカに留学するため、宝来丸という貨物船で横浜を出航する1960年10月29日付の日記から始まり、帰国直前の'63年6月15日のご家族への手紙で終わる、日記と手紙からなる記録で、東次郎さんが亡くなったあと、ご遺族がつくられた私家本をもとに再編集して出版されました。

東次郎さんは'63年に帰国すると、兄のように慕っていた式場壮吉さんがトヨタのエース・ドライバーとして活躍していることを知り、自らもトヨタ・ワークスに入ります。

'65年、船橋サーキットで開かれた全日本自動車クラブ選手権にトヨタS800で出場、ホンダS800を駆る生沢 徹選手と接触して順位を落とすも、鬼神の走りで最終コーナーにトップに立ち、見事優勝をおさめたレースは、いま、ユーチューブで見ることができます。

当時、徳大寺有恒さんこと杉江博愛さんもトヨタ・ワークスで、「トージローとは仲がよかった」とお聞きしたことがあります。式場さんから、「トージローがどうしても乗りたいっていうもんだから」、もともともは式場さんがご自分用に用意したロータス・レーシング・エランに乗せたんだ、というお話を式場さんからうかがったこともあります。

東次郎さんは結局、この船橋のレースを最後に、'65年8月20日、鈴鹿サーキットでの練習中の事故で帰らぬ人になってしまいました。いないはずのコース上にいた人を避けるために自らを犠牲にして。

浮谷東次郎という人はですから、日本のモータースポーツ草創期のレジェンドなわけですけれど、今回『俺様の宝石さ』を読み返してみて、改めて単なるレーシング・ドライバーではなかった、と思い至りました。生きておられたら、75歳。あまりに早すぎる死でした。そのことを一方的ながら書かせていただきます。

『俺様の宝石さ』ですけど、僭越ながら、文体がいささかも古びていない。中身もいま読んでも面白い。これから書くことはいちいち「僭越ながら」ですので、以後割愛させていただきます。

半世紀以上も前の文体や中身が面白い日記とか手紙なんて、そうあるものではありません。まだ何者にもなっていない、なにか大物になってやろうという若者の野心と不安が描かれた青春物語の佳作です。人種とか宗教、お金、自由と自立、成熟、女の子等、さまざまな問題について、アメリカを舞台にして、明るく清潔に、そして公平な目で語られています。

ニューヨークで、大学とかアルバイトとか、うまくいきそうなのに、あるいは実際にうまくいっているのに、カリフォルニアに引っ越して、カリフォルニアでもうまくいっているのに、結局なにごともなすことなく、アメリカを去る。東次郎さんの目的はご自身を成長させることであって、大学の卒業証書ではなかったのですから、その意味ではよしとすべきでしょうけれど、これは青春の挫折の物語だったとも読めます。

文中に当時のベストセラー、小田実の『何でも見てやろう』とか犬飼道子の『お嬢さん放浪記』とかを意識しているくだりが出てきて、東次郎さんがこのアメリカ滞在記をもとに本をお書きになるつもりだったことがわかります。ちゃんと書かれていたら……と残念な反面、いや、これはナマの記録だからいいのだ、とも思います。

つくられていないトージがここにいて、だからこそ実在感があって、読んだ人はみんなトージのことが好きになる。白人のカワイイ女の子を日本人の男の子が臆せずツイストに誘い、ひとりで高校、大学に入学届けを提出し、『タイム』だろうとどこだろうと、自分を売り込んで仕事をゲットする。その行動力とバイタリティに憧れます。

ご家族を安心させようという手紙と日記に綴られた思いのギャップに、10代後半男子のアンビバレントな感情が表れていて、その二重構造にニヤリとします。リベラルなご家族の関係がステキでもあります。

いまさらながらの私の最大の発見は、文中に「ビートニックス」という言葉が1回だけ出てきて、ああ、そうだったんだ、と腑に落ちたことです。不滅の青春のバイブル、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』がアメリカで発売されたのが1957年。

「ビートニク」という言葉は「スプートニク」からの造語だそうで、当時はソ連が宇宙開発で先行していて、やがてソ連の時代がくるとも言われていた。だから東次郎さんはロシア語を学んでいた。アメリカ大陸を愛車ホンダCB77で横断したりするのも、『オン・ザ・ロード』の影響があったのではないでしょうか。

「作家、画家、映画俳優、テレビスター、評論家、カメラマン、音楽家(ジャズの)、そんんなものの混合されたような職業が僕にいちばんあっていて、僕をいちばん幸福にできるもんじゃないかなあって思います」と終盤に書いてあって、いま、こんなことをいったら中二病じゃないかと笑われちゃいそうですけど、当時はたとえばミュージシャンでレーシング・ドライバーというような、ミッキー・カーチスとか三保啓太郎とかいたわけだし、それとはちょっと違うかもしれないけれど、浮谷東次郎だったらこんな男の子の夢のような職業を実現していたに違いない。

僭越ながらいまのニッポン人に、浮谷東次郎のような大志を抱け、といいたいです。ホントに僭越で、ここの僭越は割愛できないです。

浮谷東次郎は単なるレーサーではなかった。行動する若き思想家だった。ビート・ジェネレーションの洗礼をかの地でモロに受けた作家志望の日本人青年だった。そのことを、いまさらながら再認識した次第です。おさわがせしました。安らかにおやすみください。

敬具

アヘッド YAMAHA「YD-1」

YAMAHA「YD-1」。本田宗一郎のご子息、博俊さんに「友人になりたい」と手紙を書いて、念願叶って会ったのに、YAMAHAのバイクの性能を得々と褒めたという。そんな出会いだったが2人の友情は生涯続いた。

アヘッド カラス

鈴鹿で京都の大学生3人と出会い、この中の1人、林みのる氏(のち『童夢』を創業)が真っ白なホンダS600を改造し、それを東次郎が真っ黒に塗装。こうして"カラス"が誕生した。

アヘッド 浮谷東次郎の書籍

------------------------------------------
text:今尾直樹/Naoki Imao
1960年生まれ。雑誌『NAVI』『ENGINE』を経て、現在はフリーランスのエディター、自動車ジャーナリストとして活動。現在の愛車は60万円で購入した2002年式ルーテシアR.S.。

アヘッド ロゴ