'90年代、なぜ日本人は強かったのか。陰の立役者
更新日:2024.09.09
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本連載第1回では、’90年代に日本人が世界GPで活躍するその端緒を開いたノビーこと上田 昇氏を取り上げ、彼の強さの秘密について考えてみた。第2回となる今回は、初めての GPをノビーと共に闘った、メカニックの松山弘之さんに話を伺った。
text:ahead編集長・若林葉子 [aheadアーカイブス vol.111 2012年2月号]
text:ahead編集長・若林葉子 [aheadアーカイブス vol.111 2012年2月号]
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'90年代、なぜ日本人は強かったのか。陰の立役者
松山弘之さんと会うことになったのは偶然だった。デビュー当時のノビーのことを調べようと鈴鹿のTSR(テクニカルスポーツレーシング)に連絡をした際、電話口に出た松山さんが何気なく口にした言葉が切っ掛けだった。「僕、メカニックとして上田と一緒にGP回ってたんですよ」。私は直感的に、この人に会わなければと思ったのだ。
*
松山さんとノビーが出会ったのは1990年。ノビーはバトルファクトリーというチームでノービスクラスを走っていた。その走りがTSR社長の藤井正和氏の目に留まり、TSRで走ることになる。そのとき松山さんはすでにTSRでメカの仕事に就いており、ここで二人は初めて出会う。「おまえにそっくりなヤツがいるよって社長に紹介されたんです。会ってみたら、本当に似てたんですよ、顔がね」。
専属のメカニックが付くのはプロへの第一歩を踏み出したことの証でもある。「まっちゃんは俺の初めてのメカ。それはうれしかったよ。それまではすべて自分でやっていたのに、自分でやらなくてよくなった。その分走りに集中できるわけだし、何よりプロへ近づいたという実感があったよね」。その時の喜びをノビーはそう語る。
TSRは1990年の全日本ロードレース選手権をノビーをメインに闘った。しかし松山さんの仕事はノビーの専属といいつつも、それだけではなかった。宇川徹、柳川明のメカも請け負っていた。また全日本選手権以外にも鈴鹿の4耐や8耐、地方選手権など、年中休みなしでレースと整備に明け暮れる毎日だった。
そして運命の1991年日本GP。招待選手枠で出場したノビーは、予選トップ、決勝で優勝を果たした。ここまではある意味、筋書き通り。十分に勝算もあったし、この日のためにすべてを賭けてきた。しかしその時、そこから先の具体的なプランがあったわけではない。
「上田が優勝して、うれしくて飲んで騒いで酔っぱらって。そしたら翌日の朝、会社から電話が掛かってきて、『鈴鹿サーキットでオーガナイザーが待ってるからすぐに行け』って。慌てて飛んでいくと、『日本GPで優勝したのに、次戦のGPに出場しないのはおかしい。こちらで全て用意するから出場しろ』と。それで急遽、オーストラリアに行くことが決まった」。
次のGPまで約2週間。慌ただしく日本を発った。タイヤは手荷物で持ち込んだという。オーストラリアGPでは3位を獲得し、「ノボルは発音しにくい。おまえは今日からノビーだ」と、かのバリー・シーンが名付け親になるという嬉しいおまけまで付いた。
勢いづいた二人は、なだれ込むようにヨーロッパへと舞台を移すことになる。グアムにしか行ったことのない松山さんと、GPのために初めてパスポートを取得したというノビーのヨーロッパ珍道中の始まりである。
立ち止まって何かを考えたり、ゆっくり準備をする時間などこれっぽっちもなかった。ただ目の前のことをするのが精いっぱい。ヨーロッパを転戦する二人のツールと言えば、“五か国語の本”と一枚の大きなヨーロッパ地図くらい。言葉も分からず、土地勘もない若者たちの様子を表すエピソードには事欠かない。
「例えばスペインのへレスサーキットに向かうとするでしょ。そしたらまず地図でへレスはどこだって探して場所を見つける。ここだから、じゃぁこうやってここを通って、ここをずーっと行けばいいんじゃない ってそんな感じ。で実際に行ってみたら、ものすごい山越えをすることになって…。クルマ1台がやっと通れる道幅で、左側は崖。向こうからクルマが来ないように祈ってた」。
さすがにこれはヤバいと反省し、もう少し詳細な地図を買う。へレスに行くにはマドリッドを経由してから上がって行けばいいと後から分かるが、最初はそんなことさえ分からなかったのだ。
他にも地図の中に頻繁に表れる「サリダ」という文字。フランスに入ると今度は「ソルティエ」という文字がたくさん出てくる。なんてでっかい街なんだと。
しばらくしてようやく「出口」という意味だと分かる。しかも当時はユーロ圏は存在しない。国をまたぐごとに国境があり、輸入、保税、輸出手続き。パスポートだけではなくカルネもある。通貨の両替も欠かせないが、両替できる上限が決められていた。今では考えられないくらい煩雑で大変だった。
お金がないのはもちろん、食べ物にも苦労した。「芋ばっかり食べてたなぁ」と振り返る。ベルギーでパスタを見つけて、食べてみたら、やたらとふにゃふにゃしている。今はどうか知らないが、ベルギーでは月曜日に一週間分のパスタをまとめて茹でて出し続けるらしいと後で聞いて納得したとか。
*
松山さんとノビーが出会ったのは1990年。ノビーはバトルファクトリーというチームでノービスクラスを走っていた。その走りがTSR社長の藤井正和氏の目に留まり、TSRで走ることになる。そのとき松山さんはすでにTSRでメカの仕事に就いており、ここで二人は初めて出会う。「おまえにそっくりなヤツがいるよって社長に紹介されたんです。会ってみたら、本当に似てたんですよ、顔がね」。
専属のメカニックが付くのはプロへの第一歩を踏み出したことの証でもある。「まっちゃんは俺の初めてのメカ。それはうれしかったよ。それまではすべて自分でやっていたのに、自分でやらなくてよくなった。その分走りに集中できるわけだし、何よりプロへ近づいたという実感があったよね」。その時の喜びをノビーはそう語る。
TSRは1990年の全日本ロードレース選手権をノビーをメインに闘った。しかし松山さんの仕事はノビーの専属といいつつも、それだけではなかった。宇川徹、柳川明のメカも請け負っていた。また全日本選手権以外にも鈴鹿の4耐や8耐、地方選手権など、年中休みなしでレースと整備に明け暮れる毎日だった。
そして運命の1991年日本GP。招待選手枠で出場したノビーは、予選トップ、決勝で優勝を果たした。ここまではある意味、筋書き通り。十分に勝算もあったし、この日のためにすべてを賭けてきた。しかしその時、そこから先の具体的なプランがあったわけではない。
「上田が優勝して、うれしくて飲んで騒いで酔っぱらって。そしたら翌日の朝、会社から電話が掛かってきて、『鈴鹿サーキットでオーガナイザーが待ってるからすぐに行け』って。慌てて飛んでいくと、『日本GPで優勝したのに、次戦のGPに出場しないのはおかしい。こちらで全て用意するから出場しろ』と。それで急遽、オーストラリアに行くことが決まった」。
次のGPまで約2週間。慌ただしく日本を発った。タイヤは手荷物で持ち込んだという。オーストラリアGPでは3位を獲得し、「ノボルは発音しにくい。おまえは今日からノビーだ」と、かのバリー・シーンが名付け親になるという嬉しいおまけまで付いた。
勢いづいた二人は、なだれ込むようにヨーロッパへと舞台を移すことになる。グアムにしか行ったことのない松山さんと、GPのために初めてパスポートを取得したというノビーのヨーロッパ珍道中の始まりである。
立ち止まって何かを考えたり、ゆっくり準備をする時間などこれっぽっちもなかった。ただ目の前のことをするのが精いっぱい。ヨーロッパを転戦する二人のツールと言えば、“五か国語の本”と一枚の大きなヨーロッパ地図くらい。言葉も分からず、土地勘もない若者たちの様子を表すエピソードには事欠かない。
「例えばスペインのへレスサーキットに向かうとするでしょ。そしたらまず地図でへレスはどこだって探して場所を見つける。ここだから、じゃぁこうやってここを通って、ここをずーっと行けばいいんじゃない ってそんな感じ。で実際に行ってみたら、ものすごい山越えをすることになって…。クルマ1台がやっと通れる道幅で、左側は崖。向こうからクルマが来ないように祈ってた」。
さすがにこれはヤバいと反省し、もう少し詳細な地図を買う。へレスに行くにはマドリッドを経由してから上がって行けばいいと後から分かるが、最初はそんなことさえ分からなかったのだ。
他にも地図の中に頻繁に表れる「サリダ」という文字。フランスに入ると今度は「ソルティエ」という文字がたくさん出てくる。なんてでっかい街なんだと。
しばらくしてようやく「出口」という意味だと分かる。しかも当時はユーロ圏は存在しない。国をまたぐごとに国境があり、輸入、保税、輸出手続き。パスポートだけではなくカルネもある。通貨の両替も欠かせないが、両替できる上限が決められていた。今では考えられないくらい煩雑で大変だった。
お金がないのはもちろん、食べ物にも苦労した。「芋ばっかり食べてたなぁ」と振り返る。ベルギーでパスタを見つけて、食べてみたら、やたらとふにゃふにゃしている。今はどうか知らないが、ベルギーでは月曜日に一週間分のパスタをまとめて茹でて出し続けるらしいと後で聞いて納得したとか。
▶︎ライディングスポーツ12月号増刊『WGP'94』(1994年12月6日発行/ニューズ出版、松山弘之さん所有)より。'94年のWGP、GP-3の第1戦イタリアGPでは、ノビー、坂田和人、辻村猛の3人の日本人がついに表彰台を独占する。'90年代、いかに日本人が強かったか…。
▶︎若き日を、兄弟のように共に闘った松山弘之さん(左)とノビー。仲の良さは今も当時のまま。
レースを闘うだけでなく、同じキャンパーで完全に生活を共にし、四六時中一緒に居たのに二人は全く喧嘩をした記憶がないという。
「へレスで俺がポール・トゥ・ウィンをとって、みんなから祝福を受けてたとき、ふとみたら、なぜかまっちゃんがサイン攻めにあってる。向こうの人たちは見分けがつかなかったんだね。まっちゃんは俺のサインがうまいんだよ」。
ノビーと同じ時期に兄弟で世界GPに挑戦し始めた坂田和人選手は、ノビーと親しくなるまで自分同様、ノビーも兄弟で一緒に闘ってると思っていた、というくらいに松山さんとノビーは似ていた。よほど相性も良かったのだろう。
「まっちゃんは全然怒らない」。
ノビーは、本人曰く、怒りっぽいし、すぐ切れる。おまけにいつもかりかりしていた。愚痴を言うのもまっちゃん、腹が立って当たるのもまっちゃん。勝ってうれしくて、酒飲むときもまっちゃん。何をするのもまっちゃん。
「そう言えば、走ってるとき、あそこでぐわんぐわんってなった」、「あそこでダダダーってなった」。
そんな表現を拾ってくれるのもまっちゃんだった。上田昇の陰にこの人あり。松山さんなくしてノビーの活躍はあり得なかっただろう。
*
そんな松山さんだが、メカニックになる前は、自身も世界を目指すライダーだった。
出身は九州。WGPを走る片山敬済にあこがれて、九州の峠を疾走しながら世界を夢見た。夢を追って上京、一時は筑波でレースに明け暮れた。バトルオブツインにジレラで走って、デビュー戦で優勝したこともある。が1989年、顔見知りになっていたTSRの藤井社長に、「おまえは遅いから、これ以上走っても芽は出ないよ。メカニックをやれ。鈴鹿に来い」。そう言われた数日後、筑波を後にした。
ライダーからメカニックへの転身。葛藤はありませんでしたかとの問いに、「自分の実力は分かっていたのでまったく未練はなかったですね」。
当時は、レースになるとエントリーだけで600台ということもざらだった時代。まずはその中の40台に入らないと決勝に残れない。たとえそのグループのトップになってもタイムで予選落ちということも珍しくはなかった。
そんな中で揉まれ鍛えられた当時のライダーには悟りがある。松山さんはライダーとしての自分のレベルをよく分かっていた。芽の出ないままレースを続けるより、ライダーの夢を捨てても世界を目指す道を選んだのだ。
その捨てっぷりの良さは見事だと感嘆した。というのも、松山さんには、自分がライダーだったという過去をひけらかす気持ちがみじんもない。ノビーの才能をねたむ気持ちもまったく感じられない。
ノビーというライダーのすべてを受け入れて、力に変えた。一時は本気でライダーとしての夢に賭けたからこそ、できたことだったのかもしれない。だからノビーも、松山さんには安心してすべてを委ねられたのだと、二人の関係を見ていてつくづくそう思う。
‘90年代。強かった日本人の陰には、ひしめくライダーの中から一粒の光る才能を見出す藤井さんのような人がいた。その光る才能を真っ直ぐに支える松山さんのような人がいた。そして夢破れた数多くのライダーたちの人生があったのである。
レースを闘うだけでなく、同じキャンパーで完全に生活を共にし、四六時中一緒に居たのに二人は全く喧嘩をした記憶がないという。
「へレスで俺がポール・トゥ・ウィンをとって、みんなから祝福を受けてたとき、ふとみたら、なぜかまっちゃんがサイン攻めにあってる。向こうの人たちは見分けがつかなかったんだね。まっちゃんは俺のサインがうまいんだよ」。
ノビーと同じ時期に兄弟で世界GPに挑戦し始めた坂田和人選手は、ノビーと親しくなるまで自分同様、ノビーも兄弟で一緒に闘ってると思っていた、というくらいに松山さんとノビーは似ていた。よほど相性も良かったのだろう。
「まっちゃんは全然怒らない」。
ノビーは、本人曰く、怒りっぽいし、すぐ切れる。おまけにいつもかりかりしていた。愚痴を言うのもまっちゃん、腹が立って当たるのもまっちゃん。勝ってうれしくて、酒飲むときもまっちゃん。何をするのもまっちゃん。
「そう言えば、走ってるとき、あそこでぐわんぐわんってなった」、「あそこでダダダーってなった」。
そんな表現を拾ってくれるのもまっちゃんだった。上田昇の陰にこの人あり。松山さんなくしてノビーの活躍はあり得なかっただろう。
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そんな松山さんだが、メカニックになる前は、自身も世界を目指すライダーだった。
出身は九州。WGPを走る片山敬済にあこがれて、九州の峠を疾走しながら世界を夢見た。夢を追って上京、一時は筑波でレースに明け暮れた。バトルオブツインにジレラで走って、デビュー戦で優勝したこともある。が1989年、顔見知りになっていたTSRの藤井社長に、「おまえは遅いから、これ以上走っても芽は出ないよ。メカニックをやれ。鈴鹿に来い」。そう言われた数日後、筑波を後にした。
ライダーからメカニックへの転身。葛藤はありませんでしたかとの問いに、「自分の実力は分かっていたのでまったく未練はなかったですね」。
当時は、レースになるとエントリーだけで600台ということもざらだった時代。まずはその中の40台に入らないと決勝に残れない。たとえそのグループのトップになってもタイムで予選落ちということも珍しくはなかった。
そんな中で揉まれ鍛えられた当時のライダーには悟りがある。松山さんはライダーとしての自分のレベルをよく分かっていた。芽の出ないままレースを続けるより、ライダーの夢を捨てても世界を目指す道を選んだのだ。
その捨てっぷりの良さは見事だと感嘆した。というのも、松山さんには、自分がライダーだったという過去をひけらかす気持ちがみじんもない。ノビーの才能をねたむ気持ちもまったく感じられない。
ノビーというライダーのすべてを受け入れて、力に変えた。一時は本気でライダーとしての夢に賭けたからこそ、できたことだったのかもしれない。だからノビーも、松山さんには安心してすべてを委ねられたのだと、二人の関係を見ていてつくづくそう思う。
‘90年代。強かった日本人の陰には、ひしめくライダーの中から一粒の光る才能を見出す藤井さんのような人がいた。その光る才能を真っ直ぐに支える松山さんのような人がいた。そして夢破れた数多くのライダーたちの人生があったのである。
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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。