SPECIAL ISSUE 陽のあたる場所

アヘッド 陽のあたる場所

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人はただまっすぐに人生を歩いていてる。思い描く目的地を頭の中にセットして、そこに向かってまっすぐにクルマを走らせる。
それなのにいつしか時代の方が変化して、走っていた道の方が変化して、どこに向かっていたのか分からなくてなってしまうことがある。
本当に陽のあたる場所はどこにあるのだろうか…。

text:山下 剛、南陽一浩、まるも亜希子 photo:渕本智信、南陽一浩  [aheadアーカイブス vol.185 2018年4月号]
Chapter
ハードボイルドのいらない時代
コネクティッド・カムのもたらす未来
運転席のある人生

ハードボイルドのいらない時代

●SV650X ABS
車両本体価格:¥781,920(税込)
排気量:645cc
エンジン:水冷4サイクル 90°Vツイン DOHC4バルブ
最高出力:56kW(76.1ps)/8,500rpm
最大トルク:64Nm(6.5kgm)/8,100rpm

3月上旬、BMWモトラッドが「ナイトミーティング」の2回目を催し、前回をはるかに上回る620名ほどの来場者を集めた。

本誌182号「Feature」欄でも書いたように、このイベントにこれだけの人が集まるのは、かつての第三京浜の保土ヶ谷PAのようにたむろできる場所を欲しているからだろう。つまるところ、誰かと顔を合わせながらバイクを肴にして他愛のない話に興じたいのだ。

ツイッターのタイムラインを眺めていると、バイクを買ったというツイートが流れてくる。ヤマハの公式アカウントやバイク販売店がリツイートするそれには、車種やメーカーのほかに「バイク乗りとつながりたい」というハッシュタグがつけられていることが多い。

そこから伺えるのは、彼らがバイクという乗り物をコミュニケーションツールとして利用している事実だ。

近年のバイク業界でヒットしている商品のひとつにブルートゥース・インカムがある。高速道路のパーキングでは、出発準備をするマスツーリングの一行がインカムの接続を確認している場面に遭遇することが増えた。

「次の交差点を右折」や「ガソリン入れたい」といった意思伝達だけでなく、「昨日うちの長男が学校で……」とか「今年入ってきた新人が……」などのダベリ話をしながらツーリングできるようになった。

バイクを走らせていると風切り音やエンジン音がうるさく、同乗者とすらろくに会話できなかった。ましてやマスツーリングのときに仲間と話すなんてことはそれまでは不可能だった。

アマチュア無線で交信するという手段はそれまでも存在したが免許や機材導入のハードルが高く、ごく一部の好事家たちのものだった。だから仲間たちと一緒に走っていても「結局、人は一人で生まれ、一人で死んでいくのだ」という諦観が脳裏をちらついたものだ。

しかしインカムがそんな不可能を可能に変えた。インカムはバイクツーリングの在り方を革新的に変えたのだ。近年、バイクの販売台数が伸びているという話があるが、インカムの普及はその要因のひとつではないか。

ツーリングスタイルの変化といえば、ソフトクリームもそうだろう。いつの頃からか、高原の牧場や道の駅、サービスエリアでソフトクリームを舐める中年男をよく見かけるようになった。

旅の恥はナントヤラとか集団心理やらが織り交ざることで、「男子たるもの甘味を欲するなかれ」とでもいうような男性性のひとつを振り払えるからだろう。

これと同時に、ポリティカル・コレクトネスの浸透によって女性の社会的地位が向上して拡張され、相対的に既存の男性性を堅持する必要がなくなったことも関係しているだろう。

それまでの鬱憤を晴らすかのように、男たちはこぞってソフトクリームを舐めるようになった。これには飲酒運転の厳罰化も影響しているだろう。

飲酒運転は常識を大きく逸脱する反社会的行為となり、男は酒を飲めてナンボというような価値観を否定することが容易になったからだ。

とにもかくにも、バイクに乗った中年男がソフトクリームを舐めはじめたことで、バイクという趣味が抱えていたイメージも変化しはじめた。かつてバイクは男性性を象徴するもののひとつであり、ナイフやピストルのような武器の代用品の側面すらあった。

男はタフでなければならない。タフな男はバイクのように過酷な乗り物を操ってこそ、その価値が証明される。

あるいは、バイクとは孤独な乗り物である。雨に打たれて風に晒され、寒さや暑さに耐えつつ、次々と起こるトラブルを解決して走り続けることができてこそ、一人前のバイク乗りである。すなわち男である。

孤独に耐え、それを楽しむ心の余裕があってこそ男である、と。これらはいわば抑圧からの解放であり、男であることやバイク乗りであることの重圧に耐えなくてもいい、つまりガマンしなくてもよくなったということだ。

近年のバイクの進化が扱いやすさだったり足つきのよさにシフトしているのもそういうことだろう。革命的テクノロジーが登場すれば、雨風や暑さ寒さをガマンしなくてもいいバイクが誕生するに違いない。

かつて女がバイクに乗ると男勝りといわれた。しかし前述したように女性の社会的地位の向上や拡張にともなって、バイクに乗る女性も増えた。今、バイクを楽しむ女性のことを男勝りという人はいない。バイクは男のものではなくなった。

そもそもバイク乗りには寂しがりが多い。寂しさを感じない半生だったらバイクになんて乗らないのだ。だからこそ我慢や孤独を尊ぶ傾向があった。

しかし我慢や孤独という美徳や美学は、科学と社会の進歩が霧散して霧消させてくのである。もうそれらを尊ぶ必要はなく、「寂しいから一緒に走ろうよ」とつぶやけば、それに応える誰かがきっと現れる。

寂しさを覚えてバイクに乗りはじめるのに、それに耐え忍ぶことを求めるのがバイクなら、美徳や美学にいったい何の意味があるのか。

バイク乗り同士で寂しさを分かち合い、情報も感情も共有してより深く広く、バイク趣味を楽しめる時代になったのだ。

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text:山下 剛/Takeshi Yamashita
1970年生まれ。東京都出身。新聞社写真部アルバイト、編集プロダクションを経てネコ・パブリッシングに入社。BMW BIKES、クラブマン編集部などで経験を積む。2011年マン島TT取材のために会社を辞め、現在はフリーランスライター&カメラマン。

コネクティッド・カムのもたらす未来

昔、誰かがいっていた言葉だが、人間に見知らぬ外界を見せ、あまつさえ運んでいく自動車とは、それ自体が媒介・メディアだという。

確かに車内に腰を下ろしたまま、フロントスクリーンに刻一刻と違う風景が現れ、目の前に広がる様子は、そうともいえる。でもこれだけインターネットを通じてヴァーチャルでの情報や経験がありふれている今や、それは定義として不十分だ。

百聞は一見にしかず、もしくはSeeing is believingとはいうものの、「見た」だけで、視覚だけで分かった気になるのは今や危険なのだ。

先日、ジュネーブまでモーターショーの取材に出かけたのだが、モーターショーの情報は今や各メーカーともショーの開幕前後にインターネットを通じて公開され、現場まで足を運ぶ意味合いが薄れているという意見がある。

だがクルマは現実世界を走る以上、対戦ゲームのようにオンラインで完結しないのはご存知の通りだし、実車に触れてみないと、ボディのサイズ感やインテリアの雰囲気、操作系の感触や、おおよそ荷室の積め込めそうな具合といったものは掴めない。

むしろ概要としての情報は黙っていても、余計なノイズも含めスマホから入ってくる今、わざわざ人の手を介した情報でないと意味がないし、ヴァーチャルで見ただけで、すべて分かった・完結したような気になるのは、人がA地点からB地点へと動くモビリティ自体を、ひいては五感で何かを経験することを否定するようなものだ。

新しくクルマを手に入れるとか、それに乗ってどこかへ出かけていくのが楽しいのは、むしろ肌身感覚の日常空間から、これまでの日常にはなかった新しい発見がもたらされるかもしれないという、はしたなくも虫のいい、図々しさを肯定するような、もっと放埓な感覚だ。

サーキットに持ち込まないと走れない、趣味のレーシングカーといったクルマがストイックな麻薬のような存在とすれば、公道で乗るクルマはやはり、もっと目的のはっきりしない、期待への快楽装置なのだ。

運転しながらの車内が、一人で思案を巡らすのに適していたり、二人でいつもと違う話をしやすかったりするのは、そこが閉じられた非日常的な空間だからではない。グランドツーリングであれ近所のスーパーであれ、車内はいつもと変わらない空間だし、そもそも非日常とは日常の中に組み込まれたものだったりする。

実際、ロードムービーが映画のいちジャンルとして存在し続けているのは、車内がそれだけ特殊な空間であるからこそ、だろう。運転をしている以上、ドライバーはいつも乗員と目を合わせられるわけではないが、お互い距離は近い。

でもすべての会話に相槌を打てる訳でもない。たとえオープンカーであっても、そこは共有された密室であることは確かだし、天気のいい時に屋根を下ろせば心地よい光や風を、共通の経験として感じることもできる。

いつかは終わる移動時間という尺の中で、何かを伝えたり受け取ったり、あるいは伝え損ねたり受け取り損ねたりもする。

現実の車内にロードムービーの世界観をもたらしたとか、車内空間の定義を変えたといったら大袈裟だろうが、さすが映画の発明者リュミエール兄弟の国、こんな装備を付けることに腐心するかと感心させられたのは、フランスのシトロエンC3だった。

クルマの前方の景色を110度ほどの画角で丸ごと写しては、SNSで家族や友人、場合によっては赤の他人にまで拡散シェアできる機能、「コネクテッド・カム」を搭載してきたのだ。
アフターパーツの車載カメラで、ドライバーが自分で静止画や動画を撮れる機能はすでにあったが、メーカーがこだわってSNSでのシェアを前提に備え付けた例は、他に聞かない。

新しいツールの登場によって、人間の生活や、人間が営む関係や社会の仕組みが変わったら、車内だってそれらに合わせて進化して当たり前、という感覚がそこにはある。要はコネクテッド・カムは、シトロエンとしては洒落ではなく、現代において「備えるべき」意義ある装備なのだ。

昨年、C3の日本導入以前に本国の道でいざ使ってみたら、確かに思いのほか面白くて、つい遠回りしたことを思い出した。

写真をスマホから転送すると国際ローミング課金が発生するし、〆切から逃げているように見られかねないので、自動シェア機能だけOFFにしていたが。もし次に使う機会が巡ってくるのなら、せめて共犯者を募りたいと思う。

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text & photo:南陽一浩/Kazuhiro Nannyo
1971年生まれ。ネコ・パブリッシングを経てフリーライター歴22年。2014年までパリでクルマの他、ファッションや食に関する取材執筆、企業や美術展のコーディネイト通訳を手掛ける。3年前に帰国し、現在は東京を拠点に自動車雑誌、旅行誌やメンズ誌、仏語圏や英語圏の雑誌にも寄稿。

運転席のある人生

ドアを閉めてクッションに身体を添わせると、フゥと深い息が漏れた。カップホルダーのコーヒーに手を伸ばし、ひとくち味わう。それが、全身の空気穴から力を抜いてもいい、という合図になる。

ギュッとあげていた頰を戻し、反らしていた肩をゆるめ、指先から宙にただようような浮遊感。誰のためでもなく、自分だけの自分でいられる時間のはじまりだ。

街を行き交うたくさんの人たちと同じ空の下でありながら、ドア1枚を隔てただけのここは、まるでちがう時間が流れるようだ。私が許可しなければ誰も立ち入ることはできないし、進むのも停まるのも私の意思で決まる。

でもこちらから人々の姿を見ることも、あちらから私を見ることも自由。完全なプライベート空間ではない、どことなく外の世界とのつながりが残されているここなら、ひとりになりたい、でも孤独にはなりたくない。

そんな微妙な心の揺らぎがちょうどよく収まる場所になる。街中にも職場にも、家の中にさえも、私にとってそんな場所はほかにない。

こうして全身をゆるませてから走りだすと、エンジンが回る音に誘われるように、頭の中にフツフツといろんな想いが沸き起こってくる。今日の仕事はうまくいっただろうか。

あの人の言葉にはどんな意味があったのだろう。私の答えは間違いじゃなかったか。これから書く原稿はどんな文字から綴ろうか。最初はグラグラと煮えたつ湯の気泡のように、浮かんでは消えていた想いたちが、クルージングに入ってエンジンが安定してくる頃には、ひとつひとつ灯る明かりのように鮮やかさを持ちはじめる。

答えを見つけてスッと消えるもの。まあいいかと流れていくもの。記憶の連鎖をおこして遠いあの日をよみがえらせるもの。時には、自分でもまったく思いもよらなかった感情があふれてきて驚くこともある。

人は、心と頭が必ずしも同じ意思をもっているわけではないのだと、気づかせてくれたのが運転席だった。心ではもっと近づきたい、受け入れたいと思っているのに、頭が指示して出た言葉はまったく逆の意味になっていることもある。

だから人は時に傷つき、背を向け、疑ってしまう。ここに座っていると、両側を流れ去っていく景色や、規則正しい音と振動、前を見て的確に操作しなければという少しの緊張感が、ちょうどよい刺激になるのかもしれない。

少しずつ、そんな心と頭のからまりがほぐれていくのがわかる。そしてクルマを降りる頃には、余計な色を落としたキャンバスのように、自分がクッキリとした輪郭を取り戻す、そんな心地よさに包まれている。

カフェでひとりのんびり過ごすのとも、家でゴロリと横になって過ごすのとも、どこかちがう。きっと、たとえ目的地がはっきりしなくても、自分の意思でどこかへ走っているという意識。

それは人生とも重なるもの。前に進みたい、トキメクような景色に出逢いたい、新しい自分を見つけたい。そんな本能が呼び起こされるのが、運転席という場所なのかもしれない。

そして誰かと一緒に走るときにも、深い時間をくれることがある。思えば学生時代から続いている親友たちとは、よくクルマの中で何時間も過ごしたものだ。最愛の人に裏切られたと電話口で泣いた彼女に、すぐそっちへ行くからと駆けつけた夜。

外国で暮らす決心をした彼女とは、最後の日本の夜を走り明かした。突然の思いつきで、海からのぼる朝陽を見に走ったこともあったっけ。運転席と助手席なら二人とも前を向いているから、泣いてぐしゃぐしゃの顔を見られなくていいし、言葉が見つからなければ景色を見て黙っていてもいい。

向かい合っていたら気まずくなる時間も、ここならちょうどよく薄めてくれて疲れない。そして、ポツリと出たひとことでも、表情にごまかされず言葉そのものの重みが伝わってくる。

並んで座って、同じ音や景色の中を走っていると、人は心にかけていた鍵を開けたくなるものなのだろうか。おいそれと口にできない将来の夢や、家族のこと恋人のこと、過去の過ちや迷い。

どれもこれも、ここにいると素直に話せた。そうしてお互いを深く知ったからこそ、今では年に数回しか会わなくても親友と呼べる、かけがえのない存在になったのだろう。

自分でも気づくことのなかった自分を、鮮やかに照らし出してくれる場所。そしてそんな自分をさらけ出せる、大切な人とのつながりを温めてくれる場所。クルマが私にくれたのは、世界中のどこにもない特別な場所なのだった。

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text:まるも亜希子/Akiko Marumo
エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集者を経て、カーライフジャーナリストとして独立。ファミリーや女性に対するクルマの魅力解説には定評があり、雑誌やWeb、トークショーなど幅広い分野で活躍中。国際ラリーや国内耐久レースなどモータースポーツにも参戦している。
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