SPECIAL ISSUE 大人のいない国

アヘッド SPECIAL ISSUE 大人のいない国

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オトナのクルマやオトナのバイクという言葉をよく耳にするけれど、その定義とは、いったい何なのだろうか。オトナのドライバーやオトナのライダーとはどういう人たちのことを言うのだろう。日本には若者ぶった中高年は大勢いるが、成熟したオトナが少ないと言われている。それはクルマやバイクの世界でも同じことなのだろうか。

text:堀江史朗、嶋田智之、中兼雅之、山下 剛  photo:長谷川徹  [aheadアーカイブス vol.180 2017年11月号]
Chapter
SPECIAL ISSUE 大人のいない国
海外のイベントに見る鷹揚さ
ひけらかさない アストンの美学
オトナな中古車選び
ネオクラシックは大人の選択か

SPECIAL ISSUE 大人のいない国

海外のイベントに見る鷹揚さ

大人とは、考え方や態度が十分に成熟しているひとを指す。思慮分別がしっかりしていて、精神状態や、ものの見方がきちんとしているひと、という意味だそうだ。

確かに人間は歳を重ねて大人になっていくべき、社会性の高い動物である。

一方で、我々のまわりにたくさん存在するクルマ好きやバイク好きの男を、「永遠の少年」と表現することがある。いつまでも挑戦的で若々しい気力を持ち続けるエネルギッシュな熟年のことであり、ちょっとした仕草にカッコ良さがにじみ出ているので、結構モテるひとが多い。

長年、国内外でさまざまなイベントを取材したり参加したりしていると、ときどき「おや?」と思うことがある。

クルマはデザインの塊であり、それ自体に存在感がある。またイベントは郊外の風光明媚なリゾートや、気持ちが昂るサーキットなどで開催されることが多いので、何もしなくても華やかになるはずが、なぜか心が躍らないことがあるのだ。

今年も多くの場所でたくさんの人にお会いすることができた。イベントとは面白いもので、展示車両や企画などのコンテンツの重要性も然ることながら、参加しているエントラントや観客の表情や服装、言葉使いなどによっても印象が大きく違ってくる。

たとえば7月初旬のGoodwoodフェスティバル・オブ・スピード。ロンドンから100マイルほど離れた郊外に広がる27万エーカーもの私有地。

敷地内にはサーキットだけではなく、ゴルフ場、競馬場、そして飛行場まで用意されている。4日間での総来場者数はおよそ20万人。約2㎞のコースを駆け上がるヒルクライムが名物であるが、隣接する広場には自動車ブランドの巨大なパビリオンが多数展開されている。

すでに20年以上も続いているイベントで、決して安くないチケットにも関わらず毎年来場者は増え続けている。ヒルクライムに参戦するクルマは主催者が世界中から選んだ飛びっきりの名車であることが魅力。

家族連れやカップルなど複数で楽しそうに観戦しているイメージがあり、しかも著名なF1パイロットや往年の名ドライバーがその中を普通に往来している。
8月にはカリフォルニアの北部で開催されているモンタレー・カーウイークにも足を伸ばしてみた。モンタレーはサンフランシスコから程近い高級リゾート地であり、隣にはクリント・イーストウッドがメイヤーを務めたことで有名なカーメルというおとぎ話のような町もある。

少し内陸に入ればラグナ・セカというオールドサーキットでクラシックカーレースが開催されているし、レトロオートという蚤の市や、イタリア車だけの祭典コンコルソ・イタリアーノも開かれる。

そして何よりも素晴らしいのが、名門ゴルフコースの18番ホールの芝に車両を展示する、ぺブルビーチ・コンクール・デレガンスである。それらのイベントが約一週間に渡り、あちらこちらで同時多発的に開かれて、多くの観客が朝から晩まで、それぞれの方法で楽しみ尽くすのだ。

さて贅沢な話だが、誰もが一度は見たいと口にするような有名なイベントであっても、何度も通っているうちに感動が薄れてくることもある。
今年は普段あまり自動車と関係のない仕事をしているスタッフと一緒に行動してみると、意外にユニークなコメントが飛び出してきた。どうやらクルマに興味のない彼らは、クルマそのものよりも「どんな人が見に来ているか」が気になるらしい。

果たしてGoodwoodやモンタレーで最も好印象だったのは、女性客の多さとイベント全体の明るい雰囲気だったという。

日本のサーキットなどで開催される大きなイベントも確かに悪くはないが、参加者のストイックなところや観客のマニアックさが目立ち、「正直なところ楽しみ方がよくわからない」と彼らは言う。

それに比べて大きな海外のイベントでは、主催者の配慮もあり大抵の参加者は紳士的で朗らか。観客も自分だけが楽しむのではなく、パートナーや子供にも関心をもってもらえるように気を遣う。その心意気が会場全体に広がり、イベントのイメージがより豊かで明るいものになっていくようだ。

そもそも関心がないひとに無理強いをするのは論外。独りよがりではなく、周囲を明るく巻き込む魅力の演出が、いまクルマのマーケットに求められているのだと痛感した。

「北風と太陽」を手本にするまでもなく、クルマ好きをもっと増やしていくには、イベントなどの在り方に誰もが楽しめるような鷹揚さを磨いていくことが肝要。

明日も来年も、これからずっと趣味としてのクルマの世界を楽しみ続けるためには、大人としての自覚をもち、周囲にもその楽しみ方を覚えてもらうことの大切さを痛感した次第。

ペブルビーチでは、価値あるクラシックカーと同じくらいのレベルで、淑女たちの帽子が心象的であった。こんな光景が、そろそろ日本でも楽しめるようになってほしい。

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text/photo:堀江史朗/Shiro Horie
『Octane(オクタン)』(CCCカーライフラボ)日本版編集長。過去1987年4月~2011年6月までの長きに渡り、カーセンサー及びカーセンサーエッジ(株式会社リクルート)の編集長を務めた。

ひけらかさない アストンの美学

昨年春、アストンマーティンの新しいメインストリームとなるDB11が正式に発表されたとき、僕はその〝らしさ〟を徹底的に貫く姿勢に、自動車ライターとして、そしてひとりのファンとして、思わずニンマリしてしまった。

黄金比の魔術師とでもいうべきマレック・ライヒマンの手による抑制と均整の効いた美しいスタイリングももちろんその骨頂ではあるのだが、5.2リッターのV12ツインターボという強大な可能性を秘めたエンジンを搭載しながら、パワーをたった(!)608psに抑えていたからだ。

他のブランドのV12エンジンは、とっくに700psを超えて720psだ740psだ750psだ780psだ……とパワーウォーズを繰り広げているのに、相変わらず我関せずの泰然自若ぶり。

ケバさスレスレのド派手なルックスやどこを目指してるのか判らないド派手な数値で人を絡め取ろうなんてことは考えていない。

ある程度の柔軟さを持ちながらも自分達の哲学にあくまでも忠実、それが生み出す本質的なテイストでドライバーの心を自然に共鳴させる〝いつものヤツ〟だ。

実際に走らせてみると、DB11はやはり蕩けるほどに気持ちよく、満たされないところがないほど濃厚で、全てにわたり芳醇にして豊潤なGTスポーツカーだった。変な主張などせずとも、素晴らしく饒舌なのである。

だが、そうしたアストンマーティンならではの素晴らしさはステアリングを握った者にしか解らない、というのも確か。であるがゆえに、アストンマーティンのスピードにまつわるテクノロジーやアレンジメント能力を理解してない人達が存在するのも事実だ。

彼らにとってこのヴァルキリーは、だからもしやちょっとした衝撃なんじゃないか? と、僕は日本でお披露目された〝ほぼ95%完成形〟というモックアップを観察しながら、そして副社長兼造形部門のトップとして開発にかなり深く関わっているマレック・ライヒマンと話をしながら、やはりニンマリしつつ思ったのだった。
御存知の方も多いかと思うが、ヴァルキリーはF1グランプリを戦うレッドブル・レーシング/レッドブル・アドバンスド・テクノロジーズとの共同開発によるもの。

あくまでもロードカーであるため、レースの車両規定というものに縛られることなく徹底的に空力性能を追求するコンセプトを、レッドブルのマシン・デザイナーである稀代のエアロディナミシスト、エイドリアン・ニューウェイが中心になって推し進め、それをライヒマンが美しい造形に落とし込んだ、といっていいだろう。

もうひとつの明確なコンセプトは、パワーユニットと車重の比率が1:1であること。具体的な数値を挙げるなら、1000psのパワーユニットを積んだ車重1000kgのクルマ、ということだ。現時点のロードカーで最もパワーがあるのは1500psのブガッティ・シロンだが、車重は1995kgとほぼ2t。ヴァルキリーの1:1がどれほど凄いものか、推し量れるだろう。

しかもコスワースと共同で開発している6.5リッターV12+スモール・ハイブリッドはベンチの上ですでに回っていて、1000ps+アルファのデータを現実のものにしているという。

車体の方もあらゆる軽量素材やあらゆる軽量化技術を駆使し、1:1を実現できるところまで来ているようだ。〝2016年のF1マシンと同じ速さで走れること〟というのをターゲットに据えてるそうだが、荒唐無稽な話ではないと思えてくる。

つまりヴァルキリーは、アストンマーティンの〝他のロードカーではもっと別の部分を重視してるけど、その気になればこのくらいはできる〟のさり気ない証明でもある。

しかも通常こうしたクルマはリアウイングが高く聳え立つなどレーシングカー然としたスタイリングになりがちなところ、流れるような美しいフォルムにこだわっている。

ニューウェイの空力テクノロジーは自動車のそれとは思えないほど車体の下面や側面に張り巡らされ、それで充分以上のダウンフォースを稼ぎ出している。パフォーマンスのために必要な〝機能〟と無駄にひけらかすことをしない〝美学〟が、見事に一体となっているのだ。

例えばノーズの先につく通常は七宝焼きとなるエンブレムの重量すら嫌い、といって安直なステッカーという手も選ばず、わざわざ髪の毛1本ほどの厚みの工芸品にしか見えないアルミ製を開発して重量を従来より99.4%削る辺りからも、矜持の貫き方を窺い知ることができるだろう。

そうした成熟した大人のような振る舞いに、強く惹かれてしまうのだ。自分が大人になりきれてないから、なのだろうか……?

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text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

オトナな中古車選び

オトナっぽい子供もいれば子供っぽいオトナもいるわけだし、そもそも私自身がちゃんとしたオトナであるか否かは、極めて微妙な気もする。

したがって、まったく偉そうなことは言えないという前提ではあるが、そもそも、「大人(オトナ)」ってものを、どのように定義するべきなのか、再確認してみたい。

Wikipediaなどを参考に改めて言語化してみよう。単に年齢や身体的なことだけでなく、精神状態や「ものの見方」の観点でもオトナという表現をするわけだけれど、要は、考え方や態度が十分に成熟している、思慮分別がある。

目先のことだけに感情的に反応したりせず、長期的・大局的なことを見失わず理性的な判断ができる。などなど、少なくとも自立的に行動でき、自分の行動に責任の持てる状態であることが最低限必要な要件というべきだろう。

加えて、物事の良し悪し・価値をわかっていて、それらの判断基準を持ち合わせていることが、オトナであることの証しだろう。

さて、そんなオトナな人々にとっては、クルマ選びもまた、オトナっぽくありたいものだ。それが中古車という対象物になれば、その性質上、それなりに難易度の高い行為であると言えるかも知れない。

なにせ選択肢が、現行車を含む過去すべての車種に渡るだけでなく、個体のコンディションを見極めた上で、価格、相場感と照らし合わせながら、損をしない判断が求められるからだ。

しかも選択したクルマが、周囲から一定の承認を得る、リスペクトされる、という次元に到達していなければ、オトナであるとは言えない。

「さすが、オトナらしいね! わかってるねー! あなたらしい!」という賛同、賞賛を得る必要があり、「なんで、そんなセレクトを???」などと、絶対に思わせてはいけないわけであるから、オトナとしての責任は重大だ。

自分勝手なマスターベーションではいけないし、かといって「自分らしさ」がスポイルされた「軸のブレた選択」も許されないという点でも、オトナな中古車選びは、一層難しいと感じるかも知れない。

言い換えれば、エッジが効いていながら、それが「自分らしさ、個性」と接続されていることが大事だ。

「エッジの効いた」という表現は、「かっこいい」、「高級」、「高性能」、「速い」、「古い」、「珍しい」等という要素に因数分解されるだろうが、これらの中のいくつかの組み合わせが、自分の価値観にしっかりと合致していて欲しい。

決して、無理をして高いクルマを買えばいいというものでもなかろうし、最新型である必要もない。また輸入車にこだわる必要すらない。
『カーセンサーEDGE』(リクルートホールディングス)
毎月27日発売 価格:¥514(税込)
www.carsensor-edge.net

ブックインブックの編集記事と物件情報の2冊からからなる。読者は、今は手の届かない輸入車、プレミアムカーをいずれは所有したいと常にアンテナを張っている40〜50代の男性が中心。マニアも楽しめるようなエッジの効いた編集記事は読み応えがある。

多少強引ではあるが、オトナな(と思われる)中古車選びのポイントをいくつかあげるとすれば、

1.「フラッグシップを買う」
究極の「本物・本質」を知ってこそオトナ。トップエンドのクルマにはやはりそれなりの理由がある。新車時1500万円オーバーのフラッグシップでも500万円以下で手に入れることができるのは、中古車の醍醐味だし、オトナっぽい。

2.「長く愛する前提で」
デザインに惚れ込んだら、古さやスペックなんか気にしないで、メンテナンスをしっかりかけ、できるだけ長く愛してあげる。そのうちカラダに馴染んでくるし、クルマとの高次元な対話ができるようになるとオトナだ。

3.「誰も乗っていないクルマを選ぶ」
没個性に陥らない為にも、周囲のクルマと被ってはいけない。誰も見たことのない希少車を手に入れるのは、中古車だからこそだし、クルマの個性そのものが、買い手のアイデンティティーを形成する。

色々書いたが、是非忘れないでいただきたいのは、あくまでクルマ(中古車でも新車でも)は所詮「手段」に過ぎず、オトナとしての自己の生き様・生き方・価値観などのベースがあって、その自己実現を担う一つのツールでしかないということだ。

その意味で、「ただのクルマ好きなおじさん」だと、辛い。だから、仕事においてもプライベートにおいても、ブレない自分軸をしっかりと持ってさえすれば、「究極どんなクルマでも大丈夫!」、と言いたい。

あくまでもクルマ自体の価値以前に、乗り手側の問題なのだから。

そしてこれは、クルマに限ったことではない。一人前のオトナとして、自分の価値観に照らして物事の良し悪しの見極めを求められる対象は、洋服であれ、食事であれ、好きなお酒やお店であれ、そして付き合う人間関係であれ、皆どれも同じ要件になってゆくのだろうなとつくづく思う。

だから何にせよ「オトナとしての責任」を果たすには、自分自身をごまかさす、自分なりの価値観をちゃんと持つ、ということに尽きる。

要は、「ちゃんと生きる」って、ことかな。

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text:中兼雅之/Masayuki Nakagane
カーセンサーエッジ(CarsensorEDGE)編集長 
日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員(車歴:日産→ホンダ→シトロエン→ポルシェ)

ネオクラシックは大人の選択か

●YAMAHA XSR700
並列3気筒のXSR900に続いて登場した並列2気筒のXSR700はヤマハの提案するオーセンティックなスポーツヘリテイジに属する。単なる懐古趣味ではなく、新たなカテゴリーとしてネオクラシックを定着させようとしているヤマハの姿勢に注目したい。

かつては水冷エンジンについた冷却フィンを見ると、無駄なものをつけて格好ばっかり取り繕いやがると悪態をついたものだが、近頃はそんなことはさっぱりとなくなった。

歳のせいで丸くなったからなのかはわからないが、バイクは姿かたちが格好よければだいたいオッケーだと思うようになったし、それが機械工学的に無意味な部品だとしても、バイクに無駄なものがついていて何が悪いと思うようになった。

そもそもバイク自体がある意味無駄な存在だし、男の乳首だってそうだ。キミの無駄をなくしてやろうとハサミを片手に迫られたら、私はもちろん断固拒否して猛ダッシュで逃げる。

とはいうものの、たしかに空冷エンジンの造形は美しい。模倣したくなる気持ちはわかる。しかし格好いいからといって、水冷エンジンにそれを取ってつけるよりは、水冷エンジンとしての格好良さを追求してもらいたいというのが本音でもある。

近頃でいえば、インディアン・スカウトの水冷エンジンの造形は美しいと思わされた。

だからトライアンフにも格好いい水冷エンジンを積んだ、もうひとつのボンネビルを作ってもらいたいし、排ガス規制をクリアするために開発中という次期SR400にはそういう前時代的な価値観だけではなく、これからの40年もスタンダードバイクとして愛されるようなSRとしてまったく新しく生まれ変わってほしい。

排ガス規制に対応できず、SRが一旦生産をやめるのはこれが二度目だ。2008年にSRが消えたときも、私は次に現れるSRにはこれまでとまったく違うかたちを期待していた。

エンジンのトルクや鼓動、サウンドのフィーリングが素敵で、普通二輪免許で気軽に乗れる排気量で、特別に気負ったりしなくても普段着で走り出せて、しかも走らせることそのものが楽しい、というSRの本質さえ持っていればエンジンが水冷だろうが多気筒だろうが、もっといえば60年代英国車風という古典的な見た目じゃなくてもいい。

どんなかたちのバイクであっても「これこそが現代、そしてこれからのSRだ」と、胸を張って登場してもらいたかった。

MTー09の外装パーツをクラシカルにカスタマイズしたXSR900が出てきたとき、その車名の符号もあって、これこそが私が期待していた新世代SRだと感じた。フレーム構成や排気量、パワーフィールからいえば、XSR700のほうがよりSRに近い。

知り合いのライターから、ヤマハもこのバイクに次世代のSR、つまり誰もが気軽に、そして楽しく乗れるスタンダードバイクにするという意図を持たせていると聞いたこともあって、私は思わず我が意を得たりとにやけたりもした。

もちろんXSRシリーズのモチーフはXS650というのがヤマハの意図だが、それでも私はXSRという名称はダブルミーニングだと勘ぐっている。
●Kawasaki Z900RS
先ごろ東京モーターショーでお披露目されたZ1をモチーフにした注目のネオクラシック。一見するとレトロなイメージだが、倒立フォークやリンク式のモノサスを採用するなど、これからのネオクラシックのあり方を提言しているように思える。12月1日発売予定

さて、カワサキはそのあたりでクールというかドライというか、割り切りがよくて私の期待に近い。バイクにおけるネオクラシックという概念の発端でもあったゼファーやW650という、ヒット商品でもあった名車をあっさりと廃番にしてしまう。

かといって自社のヘリテイジをないがしろにしているわけではなく、「Z」「Ninja」「H2」など名車の名をしっかりと継承しつつ、現代の最新技術とデザインで新しいバイクを生み続けている。

東京モーターショーで公開されたZ900RSは最たるもので、これぞネオクラシックというべきコンセプトとスタイルを見せつけた。

しかしやはり古典は強く、中身のみならずその姿かたたちにも人々を魅了する美しさを持っているからこそ古典なのである。

ハーレーダビッドソンやインディアンが生み出したアメリカンクルーザー。BSA、ノートン、トライアンフなどが作り出した60年代英国車。それらを叩きのめすほどの性能と魅力を誇ったホンダとカワサキの大排気量空冷直列4気筒スーパーバイク。ベスパのスクーター。累計1億台を突破したホンダのスーパーカブ。

時の洗礼を受けてもなお古典として愛され続けているバイクたちの美しさと格好よさ、走らせたときに感じさせてくれる愉悦と歓喜は、おそらく永遠のものだ。たとえバイクがすべて電動化されても、あるいは二輪車そのものがなくなったとしても、人類の歴史としてそれらのいずれかが「バイク」という項目に残り続けるだろう。
●YAMAHA SR400
販売開始から来年で40年になるSRは現在生産休止中。これほど幅広い世代から長年に渡り支持を集めてきた車両は他にない。しかし発売された当初は、ハイパワー化の波に押されてそれほど人気がなかったという。それでも作り続けたことでSRは真のクラシックになれたのだ。
そんな古典のひとつである60年代英国車の影響を色濃く受けたSRも、ヤマハ開発陣の情熱と努力、知恵と技術によって400㏄空冷単気筒エンジンは堅守され、誰が見てもSRだというかたちとコンセプトを持って再登場するにちがいない。

SRに今乗っている人、かつて乗っていた人、乗っていなくてもSRに好感を持っている人、あるいはまったく興味がない人も、そしてヤマハもそんなSRを望んでいるはずだ。

モチーフこそ60年代英国車だが、カレーライスやラーメンが和食であるように、今やSRもまごうことなき日本のバイクである。そして、時代に合わせて規制に適合させ、古典を更新してきたネオクラシックだ。

XSRやZ900RSのように最新のエンジンとシャシーにクラシカルな外装をつける手法と、スーパーカブやSRのように古典的なエンジンとシャシーを最新技術で現代に適合させる手法。

これらは対極のアプローチだが、両者が出会うのはネオクラシックという中間地点であり、これからのバイクシーンを作っていく原動力でもある。

もしも次世代SRのエンジンが水冷で、そこに冷却フィンがついていたとしても私はそれを無駄とか虚飾とは思わない。男であれ女であれ、大人はそれが無駄なパーツではないことを知っているのだ。
●HONDA MONKEY125
今年、生誕50周年を迎えたのと同時に生産中止となった50ccモンキーの後継車として提案されたコンセプトモデル。125ccとなったことで先代よりもふたまわりほど大きくなってしまったが、現代の交通事情に即しているともいえるだろう。


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text:山下 剛/Takeshi Yamashita
1970年生まれ。東京都出身。新聞社写真部アルバイト、編集プロダクションを経てネコ・パブリッシングに入社。BMW BIKES、クラブマン編集部などで経験を積む。2011年マン島TT取材のために会社を辞め、現在はフリーランスライター&カメラマン。
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