現実と折り合いをつける 

アヘッド 現実

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ついにベールを脱いだ新型ロードスター。興味はあってもウチには子供がいるから無理だとあきらめていませんか。お子さんが中学生になっていたら「オープン・ツーシーター」に買い替える良い時期なのかもしれません。また、走りのイイクルマがほしいけど、AT免許の妻も運転するし、日常の買い物の荷物は積めないと困る、普段使いを重視したい、というのであれば、ルノーという選択はいかがでしょう。今回は、"いつか"や"そのうち"を少しでも早められそうな2台のクルマに注目してみました。

text:嶋田智之、伊丹孝裕、岡崎心太朗 photo:長谷川徹
[aheadアーカイブス vol.143 2014年10月号]
Chapter
家族持ちのためのスポーツカー
子どもが中学生になったらオープンツーシーター
若者のクルマ離れは本当か

家族持ちのためのスポーツカー

text:嶋田智之

性格悪いなコノヤロー。まぁそう思っていただいて構わない。たぶんハズレてない。だから……言おう。あのさ、そのチョイスって短絡的すぎないか?〝好きで選んだんだ〟とおっしゃるなら素直にお詫びする。お気に入りのクルマと暮らせるのは素晴らしいことだから。けれど〝おもしろくないのは判ってるけど家族のためだからしょうがない〟と内心不満タラタラなのであれば、それはある意味「ギルティ!」だ。

だって、そうじゃないか? ニコリと微笑みかけられたら知らず知らずニコリと返しているように、楽しそうに笑ってる人のそばにいると連られて笑ってしまうのと同じように、不機嫌だって確実に伝染するのだ。愛せないクルマを走らせる→おもしろくない→運転するのメンドクサイ→だから疲れたっつーの……と次第に負の連鎖に陥っていき、それはあなたの表情を徐々に奪っていく。あなたが大切に思いやっているはずの家族の笑顔を道連れにして……。どうだろう、身に覚えはないだろうか?

そんなのが幸せのカタチだとはどうしても思えない。クルマは皆の幸せを乗せるために生まれてきたものであり、皆の幸せを運ぶために買うもの、ということを忘れてはいけない。もしやあなたは〝家族のため〟の〝家族〟の中に、自分自身をカウントするのを忘れていたりはしないだろうか。

いや、選ばれたクルマにはひとつも罪はない。選ぶ側の気持ちの問題なのだ。例えば備わってるシートの数だけフル乗車して長い時間と距離を走る日が、今、年に何回あるだろう。例えば誰かを迎えに行って自転車ごと載せて帰ってくるような日が、今、年に何回あるだろう。そうしたそれほど多くはない機会を優先させたクルマ選びをするか、日々の瞬間ひとつひとつに確かな喜びがじわりと湧いてくるような御機嫌優先のクルマ選びをするか。そういうこと。どっちがダメでどっちがいいということじゃなくて、あなたはどっちが幸せ? ということなのだ。

そうはいっても走らせて楽しいスポーツカーみたいなクルマは実用に向かないし値段も高いし、現実的じゃないだろ! という反論も聞こえてきそうだ。ならば、値段控えめでスポーツカーみたいに楽しい走りの味わえる実用車、を探せばいいじゃないか、と思う。端からそんなクルマはあるわけないと思われてるからか、何なのか、意外とスルーされがちなのだけど、その範疇にあるクルマって、実はそれなりの数が存在するのである。

その中で1台オススメをあげろといわれたら、今なら僕はルノー・ルーテシアを選ぶだろう。税込み205万5000円から買えるこの小型大衆車のどこがいいのか。

まず前提として、フランスはこのクラスが圧倒的なメインストリームだからクルマ作りに手が抜けないということがあるのだけど、完成度が高い。家族4人がちゃんと乗れて小旅行に出るくらいの荷物を積み込めて、という日常的な実用性は当然ながらしっかり満たしてる。石畳の国で生まれたのだから、乗り心地が快適なのもいうまでもない。そのうえでルーテシアには、走らせる楽しさというものが見事に備わっているのだ。

たかだか1・2リッターの直噴ターボエンジンは、発進の段階から2リッター並の豊かなトルクを沸々と生み出しつつ、滑らかに軽々と吹け上がっていく。その力強さ、生み出すスピードの乗り具合は、必要にして充分という言葉を軽々超えたレベルにある。それを2ペダルのデュアルクラッチトランスミッションで切り替えていく。日頃はオートマチックとして楽々使えるのに、手動で操作をして積極的に走ってみると、間髪入れずに作業を完了させるその変速スピードの速さはかなり爽快だ。

しかも足腰の出来映えがまた格別にいい。ターンは軽やか。みっちりと芯のつまったような感触を伴って、どこまでも足を地面に踏ん張り続け、粘り強く、そして素早くコーナーを駆け抜けていく。嬉しくなるくらいのフットワーク。ちょっとしたスポーツカーを走らせてるかのようだ。しかもそれらは高性能スポーツカーのように飛ばさないと伝わってこないようなものじゃなく、例えば買い物にいく道すがらに交差点を曲がって加速していくような場面ですらニンマリできるくらいのもの。クルマを知らない奥さんでも「何か楽しい」と感じられるんじゃないだろうか。

〝折り合いをつける〟とは〝諦める〟ことでも〝放り投げる〟ことでもない。家族がニコやかでいるためにはあなた自身がいつだってニコやかでいなければならない。それを念頭において、奥さんの手を握りながらマジメに相談してみるといい。……心から健闘を祈る。
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text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada

1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

子どもが中学生になったらオープンツーシーター

text:伊丹孝裕

クルマ選びにはいくつもの「もし」がつきまとう。それを手に入れてからの生活を想像し、もし家族が増えたら、もし買い物の時に荷物が入りきらなかったら、もし友人とキャンプに行くことになったら……。

例えばそんな「もし」の積み重ねだ。最初はふたりと少々の荷物のための空間があれば充分だと思っていても、2ドアではなく4ドアに目が移り、ハッチバックよりもステーションワゴンが気になり、2列では足りないかもと3列シートを……そうやって行き着く先の選択肢のひとつにミニバンがある。

実際、ミニバンの実用性は極めて高く、出掛けるというよりは部屋ごと移動しているような気分になれるほど、広々としたスペースと至れり尽くせりの装備を提供してくれるモデルも少なくない。こと運搬や移動という意味で言えば、大は確実に小を兼ねてくれるのだ。

ただし、それが望むところだったかと問われるとどうだろう? 子どもの習い事や部活の送り迎え、一家での帰省や行楽地への行き帰り。妻や子どもにとっては快適な時間と空間だったとしても、気を使いながらステアリングを握り、ほとんどの場面でもてなす側に立つあなたは、まるで一家の召使いになったかのような気分かもしれない。クルマそのものの利便性が高くとも、運転席の満足度も等しく高いとは限らないのだ。

言い換えれば、不便なのに運転していて楽しいという真逆も成り立つ。その典型のひとつがオープンツーシーターだ。この種のクルマにネガティブな「もし」を当てはめていくとそれこそキリがなく、もし子どものいる3人以上の家族なら揃っては出掛けられず、もし買い物に行っても積めるのは必要最低限、もしキャンプの予定でもあれば最初から戦力外……とマイナスだらけ。

それなのに、「もしオープンツーシーターが持てたなら…」と願うだけで心のアイドリングが上がる。この種のクルマにはそれだけの夢があるのだ。

オープンツーシーターを所有することに漠然とした憧れがあったとしても、現実的にはイメージできなかったかもしれない。家庭があり、子どもがいればなおさらで、「それでもなんとかなりますよ」と能天気に勧めるのはあまりに無責任だろう。

とはいえ、子どもがある程度大きくなり、中学生くらいになれば少し事情も変わってくる。なぜなら、その頃になると子どもは子ども同士のコミュニティが出来上がっているため、クルマに乗って家族みんなで遠出したり、帰省したりする機会がグンと減ってくるからだ。それ自体は少しばかり寂しいことだが、だからこそかつて憧れたオープンツーシーターを手に入れるきっかけに置き換えてみるのはアリだ。

快適性を損なわない程度にシンプルで、ミッションはもちろんマニュアル。リア駆動だとさらにいい。そんな一台を手に入れ、時々子どもを乗せて街を流せば、いつもの街や日常が少し違って見えるだろう。子どもからすれば、シフトレバーをコクコクッとスムーズに、そして楽しそうに動かすあなたの横顔がいつもと少し違って見えているかもしれない。それまでA地点からB地点までの移動手段に過ぎなかったクルマが、ドライブそのものを楽しむためのツールになり、親子の、あるいは夫婦の新しいコミュニケーションの場になってくれるのだ。

例えば今ならマツダの新型ロードスターの正式リリースを待つ価値があるだろう。先頃世界同時公開され、来春の発売が見込まれている4代目のことだ。現行モデルよりも100キロ以上軽量に仕上げられ、スポーツカーの原点に立ち返りながらも、エレガントさも纏っているそれは、大人が乗るにふさわしいスタイリングに充分な日常性も備えているはずだ。

もし3人以上の乗車、あるいは大きな荷物の積載が迫られることがあればレンタカーやカーシェアリングなどなんらかの手段がいくらでもある。年にそう何度もない「もし」に備えて日々の移動を妥協するよりも、毎日を楽しくしてくれるクルマを選び、「もし」の時だけ少しの我慢や不便を受け入れる。そんな風にクルマ選びをシフトしてみるとずっと自由になれると思うのだ。

『このクルマを手に入れるほんの少しの勇気を持てば、きっと、だれもが、しあわせになる』

これは'89年にデビューした初代ロードスターのカタログを飾った文言のひとつだ。そこから25年経った今だからこそ、その言葉の意味がまた違って聞こえ、心に響いてくる。オープンツーシーターという特別な空間がもたらす特別な時間を楽しむ。子どもも成長し、親子と夫婦の関係性が少し変わり始めた今だからこそ、そこへ踏み出してみてはいかがだろう。
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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。

若者のクルマ離れは本当か

text:岡崎心太朗

「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。確かにテレビは滅多に見なくなったし、本や雑誌を読む機会もぐんと減った。なんでもかんでも「若者の○○離れ」と名前をつける風潮には疑問を感じるが、数ある問題の中で僕は「クルマ」について考えてみたいと思う。

僕は、父も祖父もモータージャーナリストという環境で育ったため、小さい時から、彼らが運転する様々な種類のクルマに乗ってきた。かといってクルマが好きだったという訳でもなく、クルマは「親に乗せられるもの」でしかなかった。しかし、親がクルマという存在を生活の中でどのように活用していたかを子供は敏感に感じているものだ。

小さい時から親が「クルマは荷物や人を運べればいい」と思っていれば、クルマに対して、楽しさや外見のかっこよさなんて気にしなくなるのも無理はない。クルマは単なる「道具」になってしまう。反対に「クルマはより楽しくかっこよく生活するために必要」という親を見ていたら、自然と「将来はかっこいい、もしくはかわいいクルマに乗りたい」という気持ちになる気がする。

よく友達に「君の家は、クルマは何に乗ってるの?」と聞くことがある。そうすると大抵、メーカー名と車種まで答えてくれる人と、色と大きさしか分からないという二種類の返事が返ってくる。前者は輸入車に乗っている家が多く、後者は国産車に乗っている家が多い。

国産車がだめと言っているわけではないが、少なくともきちんと答えられるということは、自分の中で直感的に色や形、デザインを気にしている、あるいは気に入ってるということでもあるはずだ。僕も免許を取って初めて運転したMINIベイズウォーターのこともすぐに気に入った。その「気に入る」という感覚は大事だと思う。

慣れない間はおっかなびっくりで、運転を「楽しむ」というレベルにまで達していなかったが、それでもクルマに乗る機会が増えるにつれて、運転が楽しいと感じるようになった。それは自分が運転したい時に自由に乗ることができる環境があったからだろう。

誰もが好きな時に好きなだけ運転する環境にいるとは限らない。それでも友達がみんな免許をとって、それぞれ旅行やドライブにいくのはクルマが楽しいと感じているからだと思う。

自分専用のクルマがなくとも、あの狭い空間の中でいろいろな会話をしたり、目的地までのわくわく感を共有する雰囲気は、特にクルマに興味がない人でも好きなはずだ。ドライブ中は普段クルマの話をしない人も窓の外を見ながら、「あのクルマかっこいいね!」とか「免許をとったらこんなクルマに乗りたい!」とか男女問わずにそういう会話をする。だから僕は「若者のクルマ離れ」ということをあまり感じたことがなく、クルマ業界が言うほどには深刻な状態ではないと勝手に考えている。

しかしネックはお金だ。クルマはお金がかかる。購入したら、はい、終わり、ではない。中にはそのお金をバイト代から捻出してすべてクルマにつぎ込んでいる友達もいる。けれどみんながみんな自分のクルマを持ちたいという理由だけで、そこまで自分の時間を削るのはなんだか違うような気もする。だからこそもっと気軽にクルマに乗れる環境が必要だと思う。極端なことを言うと、お金さえあれば僕たち若者世代もクルマに乗りたいという願望はある、ということだ。

僕たちの親の世代はバブルを経験している。今と違って就職の心配もなかった。当時の若者には明るい未来しか見えていなかったと聞く。今も昔も若者がお金を持っていないのは同じだけど、根底にある「将来への不安」が大きく違う。今の僕たちは有り金を全部出し切って、何かを買うという行為自体に少なからず抵抗があるし、少ないバイト代の中で遊びや生活費をやりくりしている。ましてやクルマを買うなんて夢のまた夢。お金を使いきってしまっても、何とかなるよと思えたバブル世代とは決定的に違うのだ。「バブル」というキーワードで検索するだけで、「面接に行くだけで交通費がもらえた」とか「書類に名前を書いただけで内定がもらえた」とか今では考えられないことが起こっていたことが分かる。

若者がクルマから離れたのではなく、「時代が若者をクルマから遠ざけた」というのが本当のところなのではないだろうか。

だから、何でもかんでも「昔のほうがよかった」「最近の若者は〜」とかいう大人は間違っていると思う。そんなことを言われても、今は今、昔は昔なのだ。その今をつくりあげたのは大人達でもあるし、若者のせいにして責任逃れをするのはずるい。

大人にも責任を感じて欲しいし、できることをして欲しいのだ。家族のクルマを本当に「気に入った」、今よりも少しかっこいい、かわいいものに変えるとか、それが無理なら、「せっかくだから出かける時は子供に運転してもらおう」とか、少しでも「若者のクルマ離れ」の流れを止める手助けをしてもらえたら嬉しい。大人と若者が互いの価値観を認め合い、クルマのある生活を共に楽しむことができれば素敵なことだ。僕はこれからも同世代の代弁者であり、味方でありたい。
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