ジャンルを飛び越えろ

アヘッド ジャンルを飛び越えろ

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ジャンルは人間が創造したものを区分するために使われる言葉である。本来ジャンルとは芸術作品や文学作品をひとつの側面から客観的に分類することをいう。明確な基準を持つカテゴリーとは違い、視点や時代によってジャンルは変化するのだ。しかし商業主義の中でジャンルとカテゴリーは、基本的に同義語とされ、消費側のマインドをコントロールするために利用されることがある。誰かに創られたジャンルに捉われず、自分の感性と価値観で物事を判断することが必要な時代がきている。

text :小沢コージ、嶋田智之、世良耕太、神尾 成 photo:長谷川徹
[aheadアーカイブス vol.146 2015年1月号]


Chapter
十把一絡げの終焉
枠組みなんて、なくていい
何でもありの世界耐久選手権
シンクロ率を上げる 〜epilogue〜

十把一絡げの終焉

text:小沢コージ

最近つくづく思うのだが、人は同じモノを見ているようでまったく同じように見ていない。例えば芸能人。

キムタクを1人取っても「カッコいい」という人もいれば「ナルシスト」と思う人もいるし「痛い」と感じる人もいる。某ハンバーガーに関しても、「ウマい」という人もいれば「身体に悪いから食べない」という人もいるし、「高い」とか「安い」といった値段のことを言い出す人もいる。一見、同じものを同じように見ていても、人々の意識の奥にある認識は驚くほど異なる。

だから絵画などは、ピカソもいれば、マティスやシャガール、葛飾北斎などいろいろな才能が存在してきたのだ。おそらく昔からそうだったのだろうが、最近はアウトプットに変化が生じている。特にインターネットを通じて不特定多数の声が聞こえるようになって、全てが露わになってきたように思う。ひとつの現象に対して、いろんな解釈をする人がいて、しかもそれぞれが不思議なパワーを持っているのだ。

なにしろ昔は中国は優しい国であり、北朝鮮も素晴らしい国という認識すらあったのだ。同様にメルセデスに乗っている人はお堅い原理主義者であり、BMWはちょっとミーハー、シトロエンは変わり者だったはずが、実はそうでもないこともわかってきた。かつて人々は持ち物や趣味、行く店などで単純に「この人はこういう人!」と十把一絡げで判断されていたが、インターネットの普及でそれが意味をなさなくなってきている。

ポルシェ911に乗っていて走り好きじゃないっておかしい気もするが、カタチだけを気に入って買った人もいるだろうし、軽自動車に乗っている大金持ちもいる。ファミリー向けに作られたダイハツ・タントに乗っている独身男性だってかなりいるはずだ。

要するに、その人が持っているモノや行動、肩書きなどではなく、「感じ方」であり「主義主張」であり「プライオリティ」であり「体質」。大切なのは外面以上に内面であり、感性なのである。

今後のブランディングやモノ作り、嗜好品ビジネスはそういう要素が大切になってくると思う。そのひとつがインターネットの検索連動型広告だ。ユーザーが打ち込んだ「言葉」、つまり検索ワードに連動するカタチでいろんな広告が登場してくる。そしてその言葉こそが、今後の新ジャンルになり、フレームになっていくのかもしれない。

話は変わるが、知的興奮を必要とする職業の人ほど辛いモノが好きという説があって、私の知るゲームプログラマーや大学教授はたいていがその傾向にある。また、女性はなぜか高学歴に飲み助が多い。これは自分の周囲だけの狭い話なので、もっと多くのデータを集めないと真実は分からないが、今後は、このような能動的と言えるジャンルが必要になる気がする。

また、よく言われることだが、男女ともに伴侶に求める条件として「笑いのツボが合う人」や「金銭感覚が同じ」、「一緒にいて疲れない」などがある意味でジャンルとも言えるではないか。そこにカテゴライズされた「何々を持ってる人」、「東大出身」というようなことは入ってこない。結局は昔から言われていることに戻っていくのかもしれない。見た目や肩書きだけでは人は判断できないと。とはいえジャンル分けは、永遠に終わらない人間の嗜好なのだろう。
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text:小沢コージ/Koji Ozawa
雑誌、ウェブ、ラジオなどで活躍中の “バラエティ自動車ジャーナリスト”。自動車メーカーを経て二玄社に入社、『NAVI』の編集に携わる。現在は『ベストカー』『日経トレンディネット』などに連載を持つ。愛車はロールスロイス・コーニッシュクーペ、トヨタ iQなど。

枠組みなんて、なくていい

tesxt:嶋田智之

「あのさ、シャシーナンバーでクルマを語るのもいいけど、アクセルペダルの角が磨り減って光ってたり、シフトノブの決まった部分にだけたくさん傷がついてたり、そういうところにこそ何かドラマがあるんじゃないかって思わない? そういうところからクルマを語る雑誌があっていいと思わない?」

確かそんなふうだった。1988年の暮れ、その半年後に『ティーポ』を創刊して初代編集長となる、山崎憲治さんの言葉である。六本木の薄暗く静かなバーの隅っこで、ロクなことのできない24歳の若造だった僕は、そんな素敵な言葉で誘っていただいたのだった。

シャシーナンバーでクルマを語る〟とは、例えば古いフェラーリや歴史的なレーシングカーの中の有名な個体を、車名を通り越して生産番号で特定して語る、極めてマニアックな行為である。今もクルマは国別、年代別、ブランド別、クラス別、車種別といった具合に分類され、系統立てて語られることが多いけど、その最も先鋭化したところにあるものといえるだろう。
けれど山崎さんは、それはそれで文化として大切なことだと理解していながらも、全く違うアプローチから自動車雑誌を作ることを考えていた。専門性よりドラマ性。ジャーナリズムよりエンターテインメント。簡単にいうなら、「心が動かされるものだけを伝えていこう」「楽しいことだけ紹介していこう」である。

だから誌面に登場するクルマ達の顔ぶれには何の決めごともなく、号ごと企画ごとにガラリと変わる。他の雑誌が〝話題の最新3リッター欧州製セダン4台、全方位対決〟みたいな企画をマジメにやってるときに、当時は最も高性能だったスーパーカーの1台であるフェラーリ328とたった18馬力の古ぼけたフィアット500をサーキット込みの様々なステージで戦わせて「どっちが楽しい?」なんてやってみたりした。

ハイブリッドカーが話題の最先端だった時期には、プリウスを中心にしたエコラン対決を企画しながらも、そのお相手は昔のECOスポーツカーといえるトヨタ・スポーツ800だったり軽さ極まるケータハム・スーパーセヴンだったりいかにも燃費の厳しそうなランボルギーニ・ムルシエラゴだったりした。

ティーポは今でも後輩達が眠い目をこすりながら懸命に作っているわけだけど、そうしたある種の無軌道というか何というか、〝楽しいことだけ〟を唯一のレギュレーションにギャザリングしていく〝山崎イズム〟みたいなものは根っこの部分にしっかりと活きていて、作り手から離れた立場でページを開いてみると、やっぱり楽しいな、と素直に思える。

最新号を見てみても、本気仕立てのヒストリック・ラリーカーをバンバン紹介してるかと思えば最新ホットハッチ対決を展開し、淡路島まで淡路製の働くクルマである〝農民車〟の数々を訪ねる旅をしてたかと思えば、貴重な1950年代のアバルトの名車〝ダブルバブル〟(ちなみにこれは僕が試乗記を書かせてもらってます)を芸術的な写真でもって紹介したりしている。呆れかえるほどバラエティに富んでいて、それでいて記事のひとつずつが悪ノリ込みでちゃんと〝楽しい〟のだ。

例えば食事にしても、そうなんだと思う。星付きのフレンチは確かに素晴らしい味わいを提供してくれるだろうけれど、仲間達とワイワイやりながら居酒屋で好きなモノを好きなだけ注文してカラカラ笑って飲んで食べるのは圧倒的に楽しい。本屋さんも同じで、本格的な資料が欲しいときには専門書を扱う専門店のドアを開くけど、日頃はいろーんな本がドバーッと並んでる代官山T-SITEを訪ねてあれこれ物色する方が楽しい。

クルマのイベントにも同じことがいえて、昔は〝国〟縛りだったり〝年式〟縛りだったり〝ブランド〟縛りだったりで参加できるクルマを制限するものが圧倒多数。今ももちろん、ひとつの世界観を共有しながら楽しめるイベントとして、そうした縛りをポジティブに活かしたものもたくさん開催されている。けれど近頃の主流になっているのは、縛りをかなりゆるくしたもの、あるいは縛りは一切なしにして「クルマ好き、みんな集まれー!」というようなものであるようだ。

このページの写真は〝新舞子サンデー〟、通称〝まいこサン〟というイベントを主催される方から提供していただいたものだが、毎月第3日曜日の午前中に愛知県知多市の新舞子マリンパーク(6〜8月の海の季節は別の場所にて開催)に「みんな集まれー!」のこのイベントは、日本車からスーパーカーまでありとあらゆるクルマが500台以上も集まる盛況ぶり。普通なら知り合うことがなく、また街で出逢ったとしてもそのままスレ違っちゃうようなカテゴリー違いのクルマのオーナー同士がここで知り合って、クルマの楽しみ方をお互いに広げ合っているようなかたちだ。

中学校の校則が窮屈でたまらなかった覚えは誰にでもあるだろうけど、そうした決めごとをわざわざ自分の気持ちの中にまで作る必要なんてどこにもないと思う。枠組みのようなものに惑わされることなんて、ヤメちゃうのがいいと思う。そもそもクルマは〝自由を得るため〟の乗り物なんだ、っていうことを忘れたらいけない。
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嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

何でもありの世界耐久選手権

text:世良耕太

トヨタとアウディとポルシェの対決。2015年はこの戦いに日産も加わる──。というようなアオリ文句で語られることの多いWEC(世界耐久選手権)だが、戦っているのは何も自動車メーカーばかりではない。クルマもドライバーも、異なるカテゴリーが入り乱れた異種格闘技戦なのだ。

自動車メーカーが直々に仕立てたクルマ、すなわちワークスマシンが属するのは「LMP1・H」に分類されるクラスで、エンジンにエネルギー回生システムを組み合わせることが義務づけられている。エンジンはガソリンでもディーゼルでもいいし、自然吸気でもターボでもいい。排気量も気筒数も自由だ。トヨタは3・7ℓ・V8自然吸気、ポルシェは2ℓ・V4ターボ、アウディは4ℓ・V6ディーゼルといった具合である。

エネルギー回生システムも自由で、ブレーキング時の運動エネルギーを電気エネルギーに置き換える「運動エネルギー回生システム」(つまり、量産ハイブリッド車と同じ技術)を搭載してもいいし、排気の熱を電気エネルギーに置き換える「熱エネルギー回生システム」を選んでもいい。どちらか一方でもいいし、両方積んでもいい。

ただし、1周あたりに使える燃料の量は決められている。もっと言うと、昨年の規定変更に合わせ、それ以前に比べて使える燃料が3割減らされたのだ。「どう使ってもいいよ。好きにしなさい」と言っている一方で、小遣いを3割減らしたのがWECの「LMP1・H」だ。いい気になって使ったら失速は必至なので、各社知恵を絞って開発に取り組んでいるのが実状だ。

クルマの外観は「LMP1・H」に似ているけれども、自動車メーカーではないチームに門戸を開いているのが「LMP1・L」というクラスで、さらにプライベーターを対象にして、コスト面などで参戦のハードルを下げたのが「LMP2」というクラスだ。ここまではプロトタイプと呼ばれるレース専用に開発された車両が属するカテゴリーとなる。

このほかにポルシェ911やアストンマーティンなど、市販車をベースに改造した車両が属するクラスもある。「LMGTE・PRo」と「LMGTE・Am」だ。「PRo」と「Am」の意味はプロフェッショナルとアマチュアのことだ。WECはアマチュアドライバーでも参戦できるのだ。というよりも、アマチュアドライバーでなければ参戦できないクラスが存在しているのが、このシリーズの特徴なのだ。

WECは車両だけでなくドライバーも分類しており、上からプラチナ、ゴールド、シルバー、ブロンズと、まるでマイレージカードのステータスのように振り分けている。プラチナとゴールドはプロ。シルバーとブロンズはアマで、ブロンズは「LMP1」に乗れないし、プラチナは「LMGTE・Am」に乗ることができない。レース専用に開発されたとびきり速い車両と、市販車ベースに改造したそこそこ速い車両が混走しているのがWECの特徴だ。

1周約周90秒の富士スピードウェイでは、「LMP1」と「LMGTE」の差は13秒ほどにもなる。つまり、「LMP1」が7周走ると、「LMGTE」は周回遅れになってしまうほどの速度差だ。だから、「LMGTE」のドライバーは前を向いていても、意識は後ろに向けざるを得ない。そうして意識を後ろに向けつつ、自分たちのカテゴリーの戦いをする必要があるのだ。一方、「LMP1」のドライバーはドライバーで、レースに慣れていないドライバーの動きに注意を払いながら、自分のペースを守らなければならない。

よくよく考えてみると、ものすごくハチャメチャなことを平気でやっているのがWECで、だから6時間耐久であろうと24時間レースであろうと、最初から最後まで片時も目が離せないのだ。
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世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/

シンクロ率を上げる 〜epilogue〜

text:神尾 成

昨年の秋に50歳を迎えたこともあり、さすがにいつまでも若いつもりではいられなくなってきた。筋力や持久力の衰えといった体力的な問題を考えてもオートバイを自由に操れる時間が残り少なくなってきたことを実感している。原付に乗り始めたころを含めると16歳からオートバイに乗り続けてきたので、人生の大半の時間をオートバイと過ごしてきたことになる。ここまで飽きずにオートバイに乗り続けてこられたひとつの理由としては、世代的な部分が大きい。

「オートバイはカッコイイ」という思春期の刷り込みから抜け出せずにいるのだ。しかし、ただカッコイイというだけでここまでは乗り続けられなかったはず。オートバイという遊びは、カッコ悪いことも多く起きるし、長く乗り続けていると身体的な辛さだけではなく、精神的な面で苦しむことも多いからだ。ではなぜ、30年以上もオートバイに乗り続けてこられたのか。自分の場合それは、「オートバイと同化」することが目的だったからのように思う。

「道具の身体化」という言葉がある。道具を使うときに人間は道具を自分の身体の一部として認識するという学術的な見解のことだ。

例えば、箸で物を掴むといった行動も箸先が指と同化しているような感覚が必要になる。また、自販機の下に転がってしまった硬貨を棒で探すといったような視覚に頼ることができない場面でも、手に持った棒(道具)が対象物に触れる感触を頼りに硬貨をたぐり寄せることができる。これは脳内の身体表現(もしくは身体図式)が道具まで延長することで可能になるらしい。多分この「道具の身体化」によって人間はクルマを運転できるのだろう。

人間の何十倍も体積があるトラックやバスのような大型車であっても、身体表現の感覚を鍛えることで、それらの運転を可能にしていると思われる。しかしオートバイの場合は「道具の身体化」だけではなく、真逆の「身体の道具化」が必要になる。オートバイを運転する際、人間はオートバイの一部になることが求められるからだ。

分かりきったことだが、オートバイは人間が股がってバランスを取らなければ自立することさえできない。曲がるときは当然として、加速時や減速時においても人間がオートバイの一部として働くことで走行が成立している。人間が加わって、はじめて完成する乗り物なのだ。もちろん他の乗り物でも同じような部分はあるが、オートバイは人間が補わなければならない点が格段に多い。この特徴からオートバイは「身体の道具化」が必須だといえるだろう。

そして「道具の身体化」と「身体の道具化」が融合すると人間が「オートバイと同化」することになる。その同化した状態から生まれる特殊な興奮こそオートバイが人を惹きつける最大の要因だ。それは、人間が潜在的に持っている欲求を刺激するようなもので、自分の身体が進化したような錯覚に陥る。ひとによって差はあるが、高揚感や解放感、または攻撃性など、良し悪しは別としてポジティブな気分になれるのだ。このオートバイの麻薬的な要素が長年オートバイに乗り続けてきた正体だったのである。

実は、この仕組みに気付いたのは40代の後半になってからだ。それまでは、なぜ自分がオートバイに乗るのかという疑問はなかったので、面白そうなことは何でも手を出した。北海道キャンプツーリングやオフロード、サンデーレースに本格的なカスタム車両製作までオートバイに関わることを節操なくやった。ときにそれは、流行に踊らされたり、優劣を比較するための行為だったりもした。しかしオートバイに乗る目的を自分の中に持ってからは、求めるシチュエーション以外でオートバイを必要としなくなっている。あとどのくらいオートバイに乗り続けるかは分からないが、全てを納得できる時間にしていきたい。
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text:神尾 成/Sei Kamio 
1964年生まれ。神戸市出身。新聞社のプレスライダー、大型バイク用品店の開発、アフターバイクパーツの企画開発、カスタムバイクのセットアップ等に携わり、2010年3月号から2017年1月号に渡りahead編集長を務めた。現在もプランナーとしてaheadに関わっている。
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