イタフラ車に市民権を与えた男 ジー・エス・ティー会長 佐々木公明

アヘッド イタフラ車

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扉が開いて、中へ一歩踏み入れた瞬間、視界はズラリ並んだイタリア車たちで埋まり、ふわりと異国の空気に包まれた気がした。東名高速の横浜町田ICからほど近い「アルファロメオ横浜町田」は、国内最大級のショールームだ。でもここは、ただ大きいというだけではない、訪れる人の心を揺すぶるなにかがある。その〝なにか〟の正体が、これから会う人の言葉から明かされてくるのかもしれない。そんな期待を胸に、オフィスへの階段をのぼった。

text:嶋田智之 [aheadアーカイブス vol.173 2017年4月号]
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イタフラ車に市民権を与えた男 ジー・エス・ティー会長 佐々木公明
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イタフラ車に市民権を与えた男 ジー・エス・ティー会長 佐々木公明

古くからのイタリア車・フランス車好きたちは、いつしか愛情を込めて彼の地のクルマたちを「イタフラ車」と呼ぶようになった。ほかのどの国ともちがう世界観に魅せられ、同じような苦労や歓びを共有し、少数派でも誇りを持って乗っているという自負がある。

そうしたベースが、イタフラ車という呼称にはすべてひっくるめられている。だから、互いの愛車を見ただけでどこか通じ合うものを感じ、数分でも話をすれば、すっかり意気投合することも多いのがイタフラ車好きの特徴だ。

そんなイタフラ車の歩みを語る上で、なくてはならない人がいる。まだ正規輸入代理店がない時代からイタフラ車を日本に届け、そのカーライフを支え続けてきた「イタフラ車の日本の父」とも言える存在。それが、オフィスで出迎えてくれたGST会長の佐々木公明さんである。


GSTは現在、アルファロメオ、フィアット、アバルト、プジョー、シトロエン、DS、ルノーなど輸入車9ブランドの正規ディーラーをはじめ、運転補助装置であるグイドシンプレックスや、クルーザー、ヨットといったマリン関連の事業も手がける。

はたから見ればとても大きな会社で、そのトップともなれば「クルマは商品」と割り切る、やり手のビジネスマンを想像する人が多いかもしれない。でも佐々木さんのオフィスには、デスクや壁、大きなシェルフにたくさんのダイキャストモデルやリトグラフ、写真などが飾られていて、常日頃から注がれている愛情を感じる空間だ。

カメラマンが「写ってはいけないものはありますか」と尋ねると、「ないですよ。ジャマだったらどかしても大丈夫。好きなようにやってください」と優しい。

1956年、鹿児島県生まれ。大学進学で上京するまでその地で育った佐々木さんは、高度経済成長期の真っ只中で青春を過ごした。

「若い頃はバイクが大好きでした。CB750K1からH2、スズキのGT750、カワサキのZ2、みんな乗りましたね。クルマというと、田舎ですから軽自動車が当たり前なんですよ。新車は買えないからいろんな中古車を見に行ってね。最初に買ったのはバモスホンダでした」

バイクでは当時の最先端モデルに乗りつつも、バモスのような個性的なクルマに惹かれる佐々木さんの片鱗が垣間見られるエピソードだ。そして上京すると、そこには見たこともなかったクルマたちがウヨウヨしていたという。

「とにかく周りがクルマ好きばかり。友達が持ってたのがシビックとか117クーペ、セリカにコロナ1800。東京の人たちはアルフェッタ、X1/9とかね。環八はスーパーカーで湧き上がっていました。彼らと遊んでるうちに、どんどんクルマにはまっていくんですよ。当時は目黒通りに『オートロマン』って店があって、そこへ行くと見たこともないクルマがいっぱいありましたね」

今では幻と言われるような名車たちが、現役だった時代だ。とにかく運転すること、操ることが大好きで、仲間とクルマをいじっては走らせ、走ってはまたいじるという日々。そんな中でとくに惹かれていったのが、小排気量だけどきびきびと速い、イタリアやフランスのクルマたちだった。

「でも、壊れて壊れて手に負えない〝猫またぎ〟のクルマでしたね。当時の販売店も、自分のとこで面倒見たくないから手放すんです。でも僕は、そんなことはないはず、ちゃんと手をかければ走るんだと思ってたから、そういうクルマを自分で直したかった。だから『ガレージ佐々木』なんですよ」

好きなものたちがいつの間にか集まって、自然な流れでお店になったのは、1980年頃。ガレージ佐々木とは1984年創業当時の会社名で、1991年に現在のGST(株式会社ジー・エス・ティー)になった。70年代からのマイカーブームもあり、すでに日本の自動車販売業は成熟している中での起業だった。
「先輩たちから、自動車屋だけにはならない方がいいよ、もう席は埋まってるからねと言われてた。僕も公務員の息子だから、そうだよなと思ってました。それでも大好きだったというのと、その中でもイタフラだけは完全に空席だったんです。海外から仕入れをするということにも、とくに違和感はなかった。専売店はうちだけだったと思いますよ」
佐々木さんはことも無げに当時を振り返るが、〝大好きだった〟そして〝直したかった〟、その想いが原点だということが、この世界ではとても大きな意味を持つと感じる。ルノーのサンク、プジョー205、106、505、アルファロメオのスパイダーなど、今も根強いファンがいて元気に走っている80年代イタフラ車の多くは、佐々木さんが日本に入れたクルマたちだ。クルマを仕入れて売ることは、誰にでもできる。でもそのあとに、好きで買ってくれた人たちがちゃんと乗り続けられるように面倒を見る。その、いちばん大変でいちばん大切なことを、佐々木さんはやってきた。ほかの店から見放され、苦労して乗っていた人たちが、佐々木さんを頼ってどんどん集まってきだだろうことは容易に想像できる。
そんな中、佐々木さん自身にもますますイタフラ車にどっぷりハマる出逢いが訪れていた。
「最初に見た時に本当にビックリしたのが、シトロエンGSです。あの時代にあんなクルマを造るなんて、もうただただすごいと思いました。未だにこよなく愛しています」

確かによくよくオフィスを見回すと、シトロエンのダイキャストモデルがたくさん飾ってある。イタフラ車の中でもとくに個性が濃く、デザインからメカニズムにいたるまで常に「独創的」「奇抜」と評されてきたシトロエン。

日本ではそんなシトロエンを好む人を変人扱いすることもあるが、実は深く知っていくと、シトロエンは決して奇抜なクルマを造ろうとしていたのではない。より快適なクルマを造りたい。

多くの人にクルマの便利さを手にして欲しい。そう願う夢を具現化した結果が、たまたまGSのようなカタチになったのだとわかる。そこには、乗る人の幸せをいちばんに考える温かさがあり、どこか佐々木さんと通じるものを感じるのだった。


そして、もうひとつ佐々木さんが大好きだというのが、アバルトだ。

「初めてそういうチューナーがいると知ったのは、レース雑誌とかヨーロッパに行った時の情報だったと思います。もともと小排気量で速いクルマが好きだったし、僕は10月下旬生まれのさそり座だから。チンクエチェントやセイチェントのアバルトを見ているうちに、小さいクルマをこれほどまでに速く走らせる、その技術ってすごいなと思いました。でも日本にはなくて、触れることもできない。夢でしたよね」

いつか、アバルトを日本で走らせたい。その想いが届いたのか、アバルトは2009年に日本への正規輸入をスタートした。今、佐々木さんは世界最大のアバルトのショールームを手がけ、日本は世界でも指折りのアバルト大国になっている。こうした状況を、佐々木さんはどう感じているのだろう。

「素晴らしい時代がきたなぁと思います。あの猫またぎが認められて山ほど走っているんですからね。クルマの文化というのは、日本中どこへ行ってもお客さんが困らないようになって、やっと文化と呼べると思うんですよ。

70年代には若い人が海外旅行なんて特別な人だけでしたけど、今はどんどん日本人が外に出て、パリやミラノやいろんな街でクルマを見るわけです。そうすると、気づくんですよね。クルマってこれでいいんだなぁと。そういう日本人の意識の変化が、今の状況を作ってきたのだと思います」

しかしそうした変化を感じ取りながらも、やはりここまでイタフラ車の世界を広げる道のりは、決して平坦ではなかっただろう。それを支えてきたものとはなんだろうか。

「好きで好きで仕方なくて、ずっとこの仕事をやってきました。大変でも、悩ましいことって面白いんですよね。もう少しこうしたら、もっと良くなるはずというイメージが湧いてきて、それをやってきただけなのかもしれません。

そして、やればやるほど先駆者たちが造り上げてきたものに敬意が生まれます。どんなクルマでも、何かの理由があってそうなっている。だから敬意をもってクルマと付き合います。そうした敬意がなければ、長くは続けてこられなかったでしょうね」

好きなもの、それを造った人、そしてそれに乗る人たち。佐々木さんからは、そのすべてへの大きな愛情と尊敬の念があふれている。ショールームに入った時に感じた〝なにか〟は、ここを訪れる人たちへの想いの深さが作り上げたものかもしれない。

佐々木さんは少し前に社長の座を娘のつぼみさんに譲り、会長としてその姿を見守っている。「もう僕の時代じゃないですよ」と笑うが、今も全店舗の在庫状況を常に把握しているというから、隠居生活というよりはむしろ、娘さんという強力なパートナーを得て新たな面白さを感じているように見受けられる。

佐々木さんの「好き」という気持ちのチカラは、まだまだ絶大だ。全国のイタフラ車好きのためにも、娘さんと二人三脚でますますそのチカラを輝かせて欲しいと願う。

ジー・エス・ティー

アルファ ロメオ、フィアット、アバルト、プジョー、シトロエン、DS、ルノーのほか、クライスラー、ジープ、そして運転補助装置のグイドシンプレックスを取り扱い、横浜と佐々木氏の故郷である鹿児島を中心に10店舗以上を構える。

1980年代からぶれることなくイタフラ車を事業の中心に据え、ただ売るだけではなく「きちんと整備することが大事」という信念のもと、イタフラ車の日本での普及に貢献してきた。優秀なメカニックを抱えているのもジー・エス・ティーの強みである。

GSTお客様相談室:0120(998)615 

www.gst.co.jp

嶋田智之が選ぶイタフラの名車10台

フィアット・パンダ(1980〜1999)

ジウジアーロの名作、初代パンダ。ボディに余分な曲線を持たせず窓も板ガラスで安く販売できるデザイン、長さ3.4m×横幅1.5mと小さいのに大人4人に充分なスペース、そしてフィアットらしい小気味よい走り。大ヒット作となり、イタリアの国民車的存在となった。

フィアット131アバルト・ラリー(1976〜1980)

モータースポーツでの活躍が市販車の売れ行きに影響を与える傾向の強い欧州。フィアットは131というオーソドックスな量産セダンをアバルトの手でラリー車に仕立て世界ラリー選手権に投入。1977、78年、80年にチャンピオンを獲得する。アバルト最高傑作の1台。

フィアット500(2007〜)

イタリアの最初の国民車といえる2代目フィアット500を現代にマッチするよう解釈し直して開発、2007年に送り出された現行500。先祖の持っていた誰もが思わず笑顔になれる世界観と小さなクルマならではの楽しさをしっかり継承し、再び世界中で人気者となる。

アルファ ロメオ156(1997〜2005)

マニアックな存在だったアルファを日本で一躍有名にした155の後継であり、ブランドとしての人気をさらに高めた存在といえる156。セダンらしからぬ美しく官能的なスタイリングと快感系エンジン。“クルマは気持ちよくなきゃ”の価値観を大きく広げた立役者だ。

アルファ ロメオ・ジュリア(1962〜1977)

戦後のアルファで最も成功したシリーズのひとつ、初代ジュリア。セダンもクーペもオープンカーも存在したが、セダンにすらDOHCエンジンを積んだスポーツ性へのこだわりがアルファの矜持だった。その熱さは今年上陸する2代目ジュリアにも見事に受け継がれている。

シトロエン2CV(1948〜1990)

裕福ではない地方の農家でも買えるクルマを……と開発された、フランスの国民車。奇妙なスタイリングはデビュー時に人々を呆然とさせたが、経済性、実用性、快適性、基本性能の高さが伝わりはじめるとメキメキと売れ始め、最終的には387万台少々が作られた。

プジョー205GTI(1984〜1994)

元祖GTIはVWゴルフだが、欧州車が休息に普及し始めた1980年代の日本に“欧州のホットハッチは凄い”を強烈なインパクトで植え付けたのは、この205GTI。鋭く伸びやかで速く楽しいだけじゃなく、乗り味が上質で快適、しかも洒落た姿。完成度の高さは圧巻だった。

アルピーヌA110(1962〜1977)

新生アルピーヌ初の市販車が再び“A110”と名付けられ、日本では2018年の発売が待たれるが、同時に元祖の純粋さも浮き立つ一方。車重800kg前後の軽さとRR方式のメリットを存分に利用した抜群の運動性能は唯一無二のもの。自動車史に強く刻まれる名車中の名車。

シトロエンDS(1955〜1975)

宇宙船とも形容される強烈に印象的なスタイリングを持ち、油圧とガス圧を利用したサスペンションなど複雑で先進的なメカニズムも持つが、特殊なクルマじゃなく量産高級車として145万台が作られた。このクルマの精神性が現在のDSブランドの誕生に繋がっている。

ルノー・サンク&シュペール・サンク(1972〜1996)

本国フランスでは圧倒的メインストリームなのがこのクラス。そこでベストセラーであり続けたサンクと後継のシュペール・サンクは、パリの香りを1980〜90年代の日本人に上手に伝えてくれた小粋な名優。小型車としての出来映えやパッケージングも当然優秀だった。
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text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。
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