S13シルビアやZ32フェアレディZ...バブル期の日産はなぜ次々と名車を生み出せたのか?

過剰な組織統制と労組問題に苦杯をなめた時期

どんな会社でも規模が大きくなればなるほど統制が厳しくなり、規則やルールでがんじがらめになってしまいます。70年代~80年代前半の日産はまさしくその状態でした。営業部門、企画部門、開発部門、そして経営陣の連携にバランスが取れて初めて良いものが生み出せるはずです。

しかしこのバランスが崩れ、経営陣が利益率ばかりを重視しはじめると、その傘下にある各部門はそれに従わなければなりません。現場の意見は踏み潰され、自由な発想や豊かな想像力でクルマを作りにくくなってしまいました。しかも、この時期日産は労働組合と経営陣の対立も重なり、シェアはガタ落ち、八方塞がりとも言える状態だったのです。

社内理論とフラストレーション

日産自動車・旧銀座本社

したがって現場の開発スタッフはフラストレーションが溜まっていました。彼らは何より自分の信ずる「良い車」を作りたくて日産に入ったわけです。

ところが管理主義に陥った社内では、上司の顔ばかりを伺い、自らの信念や、それどころかお客様のニーズさえも無視するような「社内理論」のクルマ作りに甘んじなければならない状況。

当時の石原社長はその問題の解決に奔走し、任期中になんとか解決の糸口を見出すのですが、結果としてその先の企業再建を1985年、社長に着任する久米氏に託すことになるのです。久米氏は自ら「久米さんと呼んでくれ」というじつに自由な人柄。社内の承認システムや職制、給与体系に至るまで大きくメスを入れていきます。

次ページ新しい改革の風吹く時

この記事をシェアする

関連する記事

最新記事