【CarMe × 土屋圭市】ドリキンに聞く!仕事、お金、人生論...土屋さんが人生で一番苦労したことって何ですか?

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ドリキンのニックネームで幅広い年齢層のクルマ好きに支持されている土屋圭市氏。今回カーミー編集部は知りたいけれどもなかなか聞けないあんなことからこんなことまで直撃インタビューを敢行。今回は人生論について聞いてみました。

聞き手・CarMe編集部/まとめ&写真・萩原文博

萩原 文博|はぎはら ふみひろ

1970年生まれ。10代後半で走り屋デビューし、大学在学中に中古車情報誌の編集部にアルバイトとして加入。1995年より編集部員として編集作業に本格的に携わる。中古車の流通、販売店に精通し、「中古車相場師」として活動。2006年からフリーランスの編集者となり、中古車だけでなく、現在は日本で最も多くの広報車両を借り出して取材を行い、新車でもユーザー視点のバイヤーズガイドを中心に、人気車種の動向や流行りの装備の価値評価などを加味した、総合的に買いのクルマ・グレードの紹介をモットーとしている。

萩原 文博
Chapter
他社との契約も残ってたけど...神からの言葉には逆らえなかった
人生、どんなピンチでも楽しむことが大事
過去に執着心はない。トロフィーさえもいらない。その境地に行き着いたきっかけは?
自分を偉そうに見せるのは虚しい。トロフィー置くくらいなら花を飾ろう
最初に志した”モノ”への尊敬の念は決して忘れない
カーミー編集部(以下C):土屋さんがこれまでの人生の中で、一番ピンチだと思ったのはいつですか。
土屋圭市さん(以下DK):そうだね。トヨタからホンダに戻ったときかな。あのときはやばいなと思った。突然、契約金が半分になったから。翌年の税金が払えるのか心配になったよ。

C:高橋国光さんにホンダに戻って来てほしいと言われたときはどうでした?
DK:国さんも人に話したことを忘れしまうのだと実感したし、その時は簡単に人を信じてはいけないと思ったよ、正直。だって国さんが涙ぐみながら、俺に「戻って来てほしい」と言われたら断れないよ。だからすぐにトヨタに「すいません。国さんに戻ってきてほしい」と言われたので、辞めさせてくださいと言った。でもトヨタを辞めてから、いくら待っても国さんから連絡がない。それで、シビレを切らして僕トヨタを辞めました。と国さんに言ったら「どうして?」と言われて、そのうえ、「僕は服部君と契約したから」と言われたのはピンチというかショックだったね。あの涙はなんだったの・・・ってね。

他社との契約も残ってたけど...神からの言葉には逆らえなかった

C:土屋さんはトヨタとの契約更新の話はあったわけですよね。
DK:あったよ。でもJGTC(現:スーパーGT)の最終戦が終わった後にトランスポーターの中で「僕は引退するからチーム国光じゃなくなっちゃう。だから圭ちゃん帰ってきて」と言われたら、トヨタやTRDで「しょうがねーなー、このヤロー」みたいなこと言われたけれど、国さんの言葉は俺にとって神の言葉だから。でも信じた俺がバカだったね。国さんから話がなければサードで乗っていたね。そして横浜タイヤでやっていただろうね。俺のことを横浜タイヤが拾ってくれたし骨を埋めるという気持ちはあった。しかし担当者が替わったり部長が替わったりすると、この人とはつきあえないというのがあるじゃない。それでARTAに落ち着いたということ。
C:今お話を聞いても、それは最大のピンチですね。でも、クライアント、スポンサーとの付き合いというのは難しいものなのですね。
DK:確かにね。それまでヨコハマとは良い関係を築いてきたと思う。しかし人事で担当者が変わって、何この人と思ってしまった。当時は自分に自信があったから、横浜を辞めてまたどこかから話が来るだろうと思っていた。今考えると楽観的だよ。だって何の保証もないのだけど、自分自身には自信があったわけだから。

C:楽観的というかポジティブにその環境を楽しめると、何か道が切り開けるということでしょうか。
DK:そうかもね。

人生、どんなピンチでも楽しむことが大事

C:土屋さんは自信をもってコレができる!ということがあるのも強みですか?
DK:うーん、でもそういえば、これで俺の人生終わった...ということはこれまでなかった。まぁいま思えば本当にヤバイと思ったのはリーマンショックのときかな。会社も、仕事もなくなった。そのうえ契約もなくなった。でもそのときも仕方ないから、長野で農家でもやろうかなと思ったね。

C:やっぱり、リーマンショックのようなことがあると、まずはレース業界に影響がきますよね。
DK:そうだね。でもそれは仕方ないよ。普通の会社だって宣伝費とかまず減らすじゃない。自動車会社の場合はやはりまずレース活動の自粛と考えるよ。でもそれって自分の力ではどうにもならないじゃない。それでじたばたしてもどうにもならないなら、その流れに任せてベストな方法を考えた方が楽しいよね。それ時くらいじゃないかな。長野に帰って農業やろうかなと思ったのは。あの時ばかりは日本も終わったなと思った。まぁレースだけなら、長野で農業やりながらでも年間8戦だけだけ出稼ぎすればいいかなと思ったよ。

過去に執着心はない。トロフィーさえもいらない。その境地に行き着いたきっかけは?

C:土屋さんは自分はレースだけじゃない。と思えるので楽観的で執着心がないですよね。レースで優勝したときもトロフィーもプレゼントしてしまいます。
DK:俺はトロフィーなんてあっても無駄だと思うよ。事務所にあっても家でも邪魔なものだよね。優勝カップやトロフィーを見ている自分の姿を思い浮かべただけで悲しくなってくるよ。友達が来た時に事務所や家に優勝カップやトロフィーが並んでいると「スゴイですね」と言われると思うけれど、それに浸っている自分が悲しいヤツだなと思えてしまう。しょせん昔の話、終わった事だから。
C:土屋さんがそのように感じるエピソードがあるのですか?
DK:ある先輩ドライバーの家に行ったときにトロフィーが並んだ8〜10畳くらいのトロフィールームがあって、あの人はこの部屋に入って、昔は良かったと思っているのかなと考えたら、なんか虚しさを感じた。それからだね。表彰式が終わったら、トロフィーを誰かにあげるようになったのは。

自分を偉そうに見せるのは虚しい。トロフィー置くくらいなら花を飾ろう

C:土屋さんはトロフィールームを作ろうと思えなかった理由は何でしょう?
DK:自分を大きくというか偉く見せたいのかなと俺は感じてしまったのだろうね。そうしたら、俺はこの人と同じ生き方はイヤだなと思えた。多くのドライバーは飾っていると思う。でも俺は並んだトロフィーとかを見て何を考えるのかなと俺は考えてしまう。さっきも言ったけれど所詮過去のこと。だったらトロフィーを飾るくらいなら、花を飾ったほうが家の中が華やかになるし。気持ち良いだろうなと俺は思う。
1993年 全日本ツーリングカー選手権を戦う高橋国光氏。ジェットヘルメットを被って戦う姿が伺える
C:記録ではあるけれども記憶ではないと考えてしまうのでしょうか?
DK:過去のレースの記録なんて、ネットで調べればわかるじゃない。トロフィーはその過去の記録なだけで、俺の中にはル・マンやグループAの記憶は鮮明に残っている。それでいいじゃない。自分の歴史をただ並べて、その歴史を見て何か生まれるの?だったら花を置いた方がいいじゃないと思う。心が和むほうがいいと俺は思うね。

C:なるほど。それでも土屋さんが大切にしているモノはあるのですか?
DK:国さんからもらったヘルメット。国さんのヘルメットは最後にかぶったジェットヘル、最後に被ったフルフェイスももっているよ。

最初に志した”モノ”への尊敬の念は決して忘れない

2018年 スーパーGT GT500クラスドライバーズチャンピオンを獲得したチーム・クニミツ、高橋国光監督(真ん中)
C:それは最初に憧れたレーシングドライバーへのリスペクトですか?
DK:そうだね。中学生のときから国さんのファンだから。残しておこう。たとえ、裏切られたことはあっても、俺に取っては大事なモノに間違いない。

C:土屋さんにとって神のような存在ですもんね。
DK:そう思うし、国さんも何ももっていないと思う。だってヘルメットもレーシングスーツも俺にくれたから。国さんもそういうものに執着しないね。だってNSXでル・マンを優勝したときも、3位のトロフィーもこれはホンダにあげよう。これはケンウッドにあげようだもの。表彰式が終わったら、あげちゃうのだから。もうそこはポディウムの上で掲げたら、それで終わりなのだろうね。それに自分が持っているより、ファンにあげたほうがよっぽど磨いてくれるじゃない。

C:ファンのほうが大事にしてくれるということですか。
DK:俺はそう思うね。だから、俺も国さんからもらったヘルメットは毎日朝磨く。やっぱり国さんのファンなんだよ。俺は。それだけはこれからも変わらないな。

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