おしゃべりなクルマたち Vol.89 芸術は人を救う

アヘッド おしゃべりなクルマたち

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「銃撃にあったら床に伏せて絶対、立ち上がるな。死んだふりしろ」 ダンナが大学の寮で暮らす息子の携帯にメッセージを送ったのは、パリでテロがあった翌日のこと。我が子にこんなことを言わねばならぬ時代に生きるとは、思ってもみなかった。

text: 松本 葉 [aheadアーカイブス vol.158 2016年1月号]
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Vol.89 芸術は人を救う

Vol.89 芸術は人を救う

私は毎朝、その日、最初のニュースをクルマのラジオで聞くが、自分が眠っている間になにか恐ろしいことが起きたのではないかと、ラジオのスイッチを入れるとき、いまだドキドキする。

何もないとわかると恐ろしさなどさらりと忘れ、今日の予定をつらつら考えるが、それでいて路肩に停まる見慣れぬバンを見つけただけで異常なほどびくびくする。まったくもって情けない。

それでも今の時期、フランス中のヒトがこうであると思う。時間の経過とともに日常が戻ってきたことは間違いないが、いまだ“忘れ物”が見つかっただけで大騒ぎになる。びくびくしてばかりいられないとわかっていても、それぞれが抱える不信感や恐ろしさを消し去ることは難しい。

こういう、個人の気持ち、社会の空気に対して、政府は「これは戦争の始まりであり、テロの危険性は続く」と明言する一方で、それでも“自粛”を自粛し、我々の日常と自由を手放さずに暮らそうとメッセージを発信している。

これは私にはとても興味深かった。現実を過小評価したり隠したりしながら、でも一応、念のためにいろいろ自粛しましょうね、私が知っていたのはこういう対応だったから。

ルノー・ジャポン主催のボジョレー絡みのイベントが本社の意向で通年通り、開催されたと聞き、これも政府の意向に沿った企業姿勢、こう理解したが、当地でも最初に中止になりそうな公立高校の旅行が問題なく実施され、娘はベルリンに出掛けて行った。

私は正直なところ、落ち着かない1週間を過ごしたが、娘が留守の間に出掛けたシトロエンDSの60周年記念パレードはとてもいいものだった。

パレードに誘ってくれたのは娘の学校の父兄。彼女とは会えばため息ばかりついていたが、気晴らしにどう? と言われてその気になった。なにより彼女の台詞が洒落ていた。「憂鬱なときは美味しいもの、食べながら愚痴るより、芸術、見るのが一番。今こそ芸術の出番。それも室内にガードされて鎮座するタイプじゃなくて、外で躍動するアートが最高」

集まったのは20台ほどのDS。それこそパリならピカピカのそれが山ほど、集まっただろうが、なにせ当地は田舎町。オーナーと一緒に年を取り、いまだ一緒に走っている、そんなDSがほとんどだったが、連なって走る姿には圧倒されるものがあって、それは見事だった。

動くアートは観るものの気持ちを外に向ける。私は生まれて初めて芸術は人間に寄り添うものであることを知った。不安が渦巻く今という時代こそ、芸術は大切にされねばならず、芸術を育てる環境にはお金をかけねばならず、ゴミとゲージュツをいっしょくたにしてはならんとも知った。それを生誕60年のDSに教えられた。

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text : 松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。
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