忘れられないこの1台 vol.75 MG MIDGET Mk3

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アヘッド MG MIDGET Mk3

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ちっぽけなMGミジェットを所有して、今年で23年目になる。英国にいた時からレースを走っていた個体なのだが、僕と出会った時には路地裏で雨ざらしになっている要レストア物件だった。

text:吉田拓生 [aheadアーカイブス vol.158 2016年1月号]
Chapter
vol.75 MG MIDGET Mk3

vol.75 MG MIDGET Mk3

▶︎カニ目の愛称で親しまれているオースティン・ヒーレー・スプライトのMG版として1961年にデビューしたMGミジェット。その軽快な乗り味は現代でもなお、オープンスポーツカーの標準原器として親しまれている。当時のBMCはクルマの宣伝のためにワークスカーを仕立て、モンテカルロ・ラリーやスポーツカー・レースに積極的に参戦していた。


クルマ関係の文筆を生業としている僕の自動車人生の草創期はこの1台とともにあった。当時は失うことなど何もない20代だったが、同時に金もなかった。

当然のようにエンジンのフルオーバーホールを含むあらゆるメンテナンスから鈑金塗装に至るまで、すべてを自分自身で手掛けた。僕はミジェットと関わることでクルマの構造をつぶさに観察し、ハンドツールや溶接機の使い方を覚えた。

一通りの修理が終わりレースに参戦しはじめてからは、ドライビングの何たるかを学ぶことができた。小さなミジェットは偉大なる学校であり、先生でもあったのだ。

フロントフェンダー4枚、フロントガラス2枚、筑波サーキットの最終コーナーでロールオーバーの1回転クラッシュを喫した時にはボディまるごとの交換も経験している。

20代の僕は自信過剰の乱暴者であり、ライバルよりもさらに奥深くでブレーキングすることに心血を注いでいた。ミジェットが先生だとすれば、僕はたびたび先生をぶん殴ってしまう問題児だったわけだ。
ボロボロの状態から走れるようになるまで2年近くかかり、少しだけ走った頃にクラッシュ&リビルドに2年を費やした。

しばらく平穏なレース活動を経て再び破壊。今度は直すのに3年といった具合だったので、レディ・トゥ・レース状態よりも修理中の期間の方が圧倒的に長く、現在も不動状態のまま放置している。

ミジェットで最後にレースを走ったのは今から10年以上も前のこと。筑波サーキットで開催されていたヒストリックレースの最中、1コーナーの進入でブレーキが抜けてしまったのだ。

時速は130キロほどだったので、そのままバリアに突っ込めば大怪我は免れなかっただろう。結果的には、ブレーキング中の他車のお尻に激しく追突することで、ミジェットは三度大破してしまったが、おかげで僕は軽いムチ打ちだけで済んだ。
ミジェットをもう一度修理して、再びスターティンググリッドに着くのかどうかは自分でもよくわからない。それでもこれまで一度もミジェットを手放そうという気にならなかったのは、このクルマが自分にとって青春時代の思い出の数々を共有してきた唯一の相棒だからである。

ホモロゲーション関係が面倒くさい現代のそれとは違って、ヒストリックのレーシングカーに賞味期限切れはない。もしミジェットと僕に次のチャンスがあるのだとすれば、その時にはもう少しジェントルにドライブしようと心に決めている。

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text:吉田拓生/Takuo Yoshida
1972年生まれのモータリングライター。自動車専門誌に12年在籍した後、2005年にフリーライターとして独立。新旧あらゆるスポーツカーのドライビングインプレッションを得意としている。東京から一時間ほどの海に近い森の中に住み、畑を耕し薪で暖をとるカントリーライフの実践者でもある。

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