ダカールラリーとは何か 若林葉子から見た 三橋 淳 45歳の挑戦

アヘッド ダカールラリー

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マッド・デイモン扮する宇宙飛行士が火星に取り残され、やがて地球に帰還するまでが描かれた映画『オデッセイ』。「ちょっと話が遠いかもしれないけど」と、この映画を例えに出しながら、ダカールラリーから帰国したばかりの三橋 淳は話し始めた。

text:ahead編集長・若林葉子 photo:KTM JAPAN [aheadアーカイブス vol.159 2016年2月号]
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ダカールラリーとは何か 若林葉子から見た 三橋 淳 45歳の挑戦

ダカールラリーとは何か 若林葉子から見た 三橋 淳 45歳の挑戦

■三橋 淳/Jun Mitsuhashi
1970年生まれ。1999年より本格的にライダーとして活動を始め、パリ・ダカールラリーでは2輪部門日本人最高位(総合12位)を獲得。2003年に四輪へ転向。チームランドクルーザー・トヨタオートボデーではチームを5度のクラス優勝に導く。トヨタオートボデーを離れ、2016年1月、再びライダーとしてKTM JAPANのバックアップを得て参戦。45歳の年齢で見事、完走を果たした。


「どうしても地球に帰りたいという本人以上に、どうしても彼を地球に帰してやりたいと思う仲間がいてはじめてその願いが叶うんですよね。今回の挑戦もそれと同じで、もう一度、ダカールを走りたいという自分と、どうしても僕を走らせたいという野口さんがいてはじめて実現したことなんです」

この1月に開催されたダカールラリーに13年ぶりに再び二輪部門(KTM 450Rally Replica)で参戦することになった経緯は本誌157号(2015年12月号)でも紹介した。トヨタ車体から出場した四輪の市販車部門では5度のクラス優勝を果たした三橋選手が、とはいえ長く第一線から離れていた二輪部門で、しかも45歳という年齢の今、果たしてどこまで行けるのか。そもそも完走できるのか。

2009年にパリ・ダカールラリーが南米に舞台を移してから、まだ日本人で完走したライダーはいない。そんな事情もあって三橋選手の挑戦は大きな注目を集めた。

そして結果は見事、二輪総合56位で完走(出走136台。完走84台)。南米のダカールラリーで初めて完走した日本人ライダーとしてダカール史上にその名を刻んだ。

「さすがは三橋選手!」

そんな称賛の声とともに、「ちょっと残念」という声があったのも事実だ。それは、三橋選手本人が「自分にとってのレーシングスピードではなかった」と言うとおり、堅実な走りに徹したからだ。

「あれだけの実力があるのだから、たった一日でもいい、思い切ってチャレンジングな走りを見せて欲しかった」というのが〝残念〟の真意なのだと思われる。

「そういう意見のあることは理解しています。でも、もし半年くらい前からきっちりトレーニングを積んだとしても、今の僕の実力ではせいぜい20番台後半くらいまでしか行けなかったでしょう。2002年のパリ・ダカールラリーでの二輪総合12位という自分の記録を更新することはできない。ならば、大きなリスクを冒さず、確実に完走を目指そう。それが45歳という今の自分にふさわしいチャレンジだと考えました」(三橋選手)

参戦前に自ら「おそらく60位くらいだと思う」と結果をほぼ言い当てたことを鑑みると、どんなに頑張っても20番台後半というのもそのとおりだっただろう。しかし無理すればその分、リスクはとたんに大きく跳ね上がる。
以前、ダカールラリーを走ったことのあるライダーから、「もっとアクセルを開けられる、もっと全開にできる。でも、いつなんどき何があるか分からない。だから常に自分を抑えていなければならない」と聞いたことがある。

競技者は〝もっと速く、もっと先へ〟という気持ちと、ほんのわずかなアクシデントに備える気持ちのそのぎりぎりのせめぎ合いの中でレースをコントロールしている。

2週間にも渡る長い競技期間の中で、自分の定めた目標に向けて、レース運びのみならず、体調やメンタルなどを含めた生活のすべてをマネジメントできたものだけが完走できる。だからこそダカールラリーはすべての完走者がポディウムにあがり、完走メダルを受け取るのだ。

それをやりきった三橋選手はやはりすごいと思う。

そして。ひょっとしたらもっとすごいのはKTM JAPANの野口英康社長かも知れない、とも思うのである。走りたいと思った本人以上に、三橋選手を走らせたいと思ったのが野口社長だった。

「僕は以前からダカールラリーにはすごく興味があったんですよ。もし、ウチがやるとしたら三橋さんしかいないと思っていました。でも、これまでの三橋さんのキャリアを考えると、こちらからオファーできる立場にはなかった。だから本人から相談を受けた時、すぐに決断しました」

社員12人という規模の会社でダカールラリーに選手を送り出すというのは大変大きな投資のはず。それでも、自分は責任を取れる立場にあるからと決断し、資金面はもちろん、オーガナイザーとのやりとり、サポート体制に至るまで、自ら東奔西走した。プライベーターの参戦としてはこれ以上ないというくらい理想的な体制だったと言えるだろう。

走りたいという三橋選手と、走らせたいという野口社長。二人の強い思いが完走という形で結実した。ワークスドライバーから再びプライベーターのライダーとして、三橋選手はのびのびと南米の大地を走り抜けた。HPなどにアップされている彼のいきいきとした表情がそのことを物語っている。
来年はどうしますか? 敢えて聞いてみた。「今はまだ考えられない」という三橋選手の隣で、「楽しかったから、もう一回やってもいいかな」と笑ったのは野口社長の方だった。

昨年(2015年)、私も実際にナビとして参加(日野チームスガワラ1号車ナビ)してみてよく分かったが、今のダカールにはもはや、かつて私たちの世代が憧れた〝冒険〟はない。

年々コンペティションの性格を強め、その意味でアマチュアにはますますハードルが高くなっているとも言える。それでも世界中のライダーやドライバーがダカールを目指してやってくる。南米に移ろうが、冒険ではなくなろうがダカールはダカール。その魔力こそがダカールラリーなのだろう。

▶︎三橋選手が参戦したのはレース中に主要パーツを無交換で走るマラソンクラス。レース中、エンジンはもちろん、前後サスペンション、スイングアームを交換することはできない。マラソンクラスの39台中完走は24台(三橋選手は13位)。完走した24台のうち実に19台がKTMだった。

三橋選手はレース後、自分のHP上でこう語っている。「今ダカールラリーでは、壊れないのは当たり前の世界。そこで高いパフォーマンスを生み出すことを追求したメーカーだからこそ、こうした製品が開発され、しかも販売されている。

丈夫で長持ちするだけなら、進化はいらない。このKTMラリーはインジェクション化され、電気の支配下に置かれた、いわば現代のバイクですが、きちんとレーシングモデルとして進化させつつ、信頼性を高めている。だからこそ、多くのライダーが選ぶのです。

そしてそれが誰にでも手に入る。こんなこと日本のメーカーではできません。何故できないのか? それが日本の抱える問題だとも思っています」KTMの堅牢性、信頼性は群を抜いているのである。

www.jun38c.com/

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
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