東京エスプリ倶楽部 vol.11 ランボルギーニ ミウラの真実

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ランボルギーニ・ミウラをデザインしたのはジョルジェット・ジウジアーロだ、という都市伝説がある。ミウラがデビューしたのは1966年のジュネーブ・ショーで、デザインはカロッツェリアのベルトーネが手がけた、と当時発表された。ランボがのちにミウラとなるベアシャシーだけを発表したのがその前年11月のトリノ・ショーで、ジュネーブ・ショーは毎年3月に開かれている。

text:今尾直樹 [aheadアーカイブス vol.176 2017年7月号]
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vol.11 ランボルギーニ ミウラの真実

vol.11 ランボルギーニ ミウラの真実

ランボルギーニ・ミウラをデザインしたのはジョルジェット・ジウジアーロだ、という都市伝説がある。ミウラがデビューしたのは1966年のジュネーブ・ショーで、デザインはカロッツェリアのベルトーネが手がけた、と当時発表された。ランボがのちにミウラとなるベアシャシーだけを発表したのがその前年11月のトリノ・ショーで、ジュネーブ・ショーは毎年3月に開かれている。

ジウジアーロがベルトーネを辞したのが同じ年、つまり1965年の11月、マルチェロ・ガンディーニはジウジアーロの後任としてベルトーネにやってきた。11月の何日かは不明ながら、1ヵ月はあいさつまわりとかでデザイン画を描くヒマもなかったのではあるまいか。

否、ガンディーニは天才である。天才は天才であるからして、着任したその日からとりつかれたように仕事をし、わずか4ヵ月であの自動車史に残る傑作を誕生させてしまったのだ、という解釈ももちろんできる。だからこそ天才なのだ。

筆者がどこかで読んだ記憶によれば、書き手は誰だったか忘れてしまったけれど、ミウラのデザインのほとんどはジウジアーロの時代にできていて、ガンディーニはジウジアーロの残した図面を仕上げたに過ぎない。ただし、あのチャーミングなヘッドライトのまつ毛とリアのカーテンシャッターみたいな飾りはガンディーニなくして生まれなかった、というようなことが書かれてあったように思う。

彼らふたりの天才の上に、ヌッツィオ・ベルトーネという名伯楽がいた。彼がいなければジウジアーロもガンディーニも、それからジウジアーロの前の天才、フランコ・スカリオーネも見出されなかった。


20年ぐらい前のドイツの自動車専門誌「アウト・モトール・ウント・シュポルト」で(だったと思う)、ジウジアーロとガンディーニ、ふたりの仕事を比較するという企画があった。私の記憶によれば、見開き右ページにジウジアーロとマゼラーティ・ギブリが、左ページにガンディーニと、カウンタックではなくてミウラの写真がそれぞれレイアウトされていて衝撃を受けた。

もし、ジウジアーロがミウラをデザインしていたのだとすれば、これはないでしょ、とクレームをつけるに違いない。つまりこの記事は成り立たない。ということは、ガンディーニは恐るべき天才なのかもしれない……。

というような有名な都市伝説を長々と書いたのは、最近そういう話を、現行マツダ・ロードスターの主査兼チーフデザイナーの中山 雅さんとしたからだ。中山さんはガンディーニの熱烈な信奉者だった。

ミウラ・ジウジアーロ説をとる私はこんな問いを中山さんに投げかけた。たとえばジウジアーロがギア時代に手がけたいすゞ117クーペの面とかラインはミウラと似たところはないでしょうか? 

「やめましょ。(答の)わからない話をえんえんしていてもしようがない」

あぁ、そうなのである。新しい商品を期間内につくりあげ、それを成功させなければならない人と、のん気にあーだこーだ言って喜んでいるだけの人とでは先達デザイナーへの思いひとつをとってもレベルが違うのだ。ごめんなさい。とりあえず謝っとこ。

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text:今尾直樹/Naoki Imao
1960年生まれ。雑誌『NAVI』『ENGINE』を経て、現在はフリーランスのエディター、自動車ジャーナリストとして活動。現在の愛車は60万円で購入した2002年式ルーテシアR.S.。
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