東京エスプリ倶楽部 vol.12 拝啓 本田宗一郎さま

アヘッド 東京エスプリ

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本田宗一郎を一度だけ見たことがある。そう、見ただけなんですけどね。エンジン・サプライヤーとしてF1に復帰した第2期ホンダF1の全盛時代、80年代後半に東京・青山のホンダ本社で開かれたチャンピオン獲得の報告会だったか感謝の会だったか、正確に何年とも覚えていないけれど、ともかくナマ本田宗一郎が大勢の人たちに囲まれて、そこにいた。目がキラキラしていて、「これは猿だ……」と私は思った。

text:今尾直樹 [aheadアーカイブス vol.177 2017年8月号]
Chapter
vol.12 拝啓 本田宗一郎さま

vol.12 拝啓 本田宗一郎さま

ごめんなさい。スパナ投げないでーッ! って、投げられてませんけど、「猿」というのはつまり、原始の炎というか、野生の生命力の強さというか、現代人がなくしてしまった天然自然のエネルギーを持ち続けている人という意味です。実際このときはF1チャンピオンという自身の夢を後輩たちが達成してくれた感動もあって、瞳がウルッウルッだったのだろうとも思う。

本田宗一郎は敗戦の翌年、41歳で本田技術研究所を立ち上げ、わずか15年で世界最高峰のオートバイ・レース、マン島TTで優勝、その5年後にはF1でもメキシコGPで初の勝利を収め、25年間社長として陣頭指揮に立ってホンダをグローバル企業に育て上げ、66歳の若さであっさり後進に道を譲った。ニッポン人とか国とかを超え、常識は破るためにある、といい放った真の自由人だった。

若い頃は芸者をあげて飲めや歌えの大騒ぎをするのが大好きで、酔っ払って、芸者を料亭の2階から放り出しちゃったこともある。彼女は、いや、本田宗一郎は、というべきか、幸運にも電線にひっかかって、ことは停電だけでおさまった。

勉強も本を読むことも嫌いだった。だって、それは過去のものだから。晩年、コンピューターの時代に大切なのは、知識の暗記ではなくて、そんなのポンとスイッチを押せば出てくるのだから、それより誰にでも好かれる人間になることだ、と語った。

生家は現在の静岡県天竜市の鍛冶屋で、生来のメカ好き。小学校2年のとき、飛行機を見るために親に黙って学校をサボり、浜松まで20㎞の道のりを自転車の三角乗りで走った。入場料が10銭だかで、もちろん払えず、木に登って飛行ぶりを感激しながらタダ見した。帰途の三角乗りのペダルは軽かった、というのだから末恐ろしいタフガイだった。

16歳で東京・本郷にあったアート商会という自動車修理工場に丁稚奉公に出て、現物、現場で学び、その後独立、よく働き、よく遊んだ。「浜松の発明狂」とまで呼ばれた創意工夫の人で、金持ちも貧乏人も、天皇も外国人もブルーカラーもホワイトカラーもみんな平等だと考えた。自分で創業した会社なのに自分の子どもはえこひいきされるから、と入社させなかった。

「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった」と1954年のTTレース出場宣言にあるけれど、まさに20世紀初めの世界中の若者が見た夢を実現してしまったのだから、マジかっこいいっす。

「やりたいことをやれ」「得手に帆をあげて」「会社のために働くな」……本田宗一郎が残した言葉の数々は混迷の時代のいまこそジ〜ンと響く。それにしてもなぁ……今月、特集原稿のオーダーを間違えて本田宗一郎への手紙をせっせと書いていた俺。

敬具

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text:今尾直樹/Naoki Imao
1960年生まれ。雑誌『NAVI』『ENGINE』を経て、現在はフリーランスのエディター、自動車ジャーナリストとして活動。現在の愛車は60万円で購入した2002年式ルーテシアR.S.。
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