SPECIAL ISSUE クルマに関わる見栄と意地

アヘッド SPECIAL ISSUE クルマに関わる見えと意地

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人にとって見栄を張ることは、ときには必要ではあるが、他人に見せびらかすためだけの見栄ほどみっともないものもない。そのバランスの中に、その人の生き方が現れると言っても言い過ぎではないだろう。特に男性にとって、クルマやバイクと"見栄"の関係は浅からぬものなのである。

text:山下 剛、吉田拓生、橋本洋平、伊丹孝裕 photo:長谷川徹  [aheadアーカイブス vol.186 2018年5月号]
Chapter
クルマに関わる見栄と意地
見栄のなかの意地と、 意地のなかの見栄
イギリスとやせ我慢
僕が高いクルマを買う本当の理由
スポーツシングルの美学

クルマに関わる見栄と意地

見栄のなかの意地と、 意地のなかの見栄

text:山下 剛


高速道路のパーキングエリアでバイク乗りにキャッチ取材をしていたとき、ハーレーのオーナーをつかまえて「このバイクを選んだ理由は?」と尋ねたら「見栄ですよ、見栄!」と言ったあとでハハハと爽やかに笑われて、清々しい思いをしたことがある。

そう、見栄は堂々と張ってこそ見栄である。

とはいえ、張りすぎると「見栄っ張り」といわれて侮蔑される。どのくらいの見栄をいかほど張ればいいのか、サジ加減はむずかしい。たとえば自分のことで考えてみると、BMWのバイクを買ったなら見栄っ張りとは思われないだろうが、同じBMWであってもクルマとなると私の場合はやはり見栄っ張りと陰口を言われるだろう。

いっぽう、見栄と同じように張ってこそ価値があり、張りすぎると無価値どころか軽蔑されてしまうものに意地がある。意地は自分のために張るもの、見栄は他人のために張るものだが、引いては己の身に返ってくるのだから結局は見栄も自分のために張るものではある。異なるのは社会を経由するかどうかだ。

クルマであれバイクであれ、自分のものにしようとするときは見栄と意地がせめぎあう。それが趣味であればなおのことだが、生活必需品としてクルマやバイクを選ぶときもやはり同様だ。現金やカード一括でポンと買えるならともかく、そうでないことがほとんどだから、どこで見栄をへし折り、意地を捻じ曲げるか。あるいは見栄を立て、意地を伸ばすか。

「買ったあとよりも、あれにするかそれともそれにするかと悩んでいるときがいちばん楽しい」とはクルマやバイク趣味でよくいわれることだが、自分が所有し、操る乗り物に個人と社会をどれだけ配分させるか、いわば本音と建前のブレンド具合をたしかめる思考作業が楽しいというわけで、クルマ・バイク選びとはつまるところ自分探しでもある。

ところで世の中一般では、クルマであれバイクであれ、まだまだ外車は見栄だと思われている。偏見といえばそうだが、それが合致していることもあるからこの風潮がなくなることはないだろう。しかしそれが趣味となれば事情は異なる。外車に乗ってるというだけで見栄っ張りと後ろ指をさされることはほとんどないし、ただ外車に乗っているというだけで見栄は張れない。

ただしバイク趣味の世界でいえば、近頃は見栄でバイクを選ぶことが少なくなってきている感がある。見栄よりも実用でバイクを選ぶ人が増えているように思える。

バイクもクルマも「高価=エライ」「大排気量=エライ」という図式はいまだにあるが、近頃のバイクは国産車と外車の価格差がずいぶんと縮まってきているし、クルマと違ってバイクの場合は大排気量車ゆえの車格と車重が、高齢化して体力が衰えつつあるバイク乗りにとっては扱いにくさが際立ってしまう。大型二輪免許の取得方法が試験場での一発試験という難関だけでなく、教習所に通えば誰もが簡単に取れるようになった影響もあるだろう。

もっとも、バイクの場合はそもそもが反社会的なスタイルの象徴という側面があり、たとえホンダ・RC213VーSに乗っていたところで世間一般に対しては見栄もへったくれもない。どんなバイクであれ、マフラーでも変えようものなら、ちょっと大きくなった排気音を聞いた近所の住民から暴走族のレッテルを貼られるのがオチだ。

また、バイクがクルマとちがうのは、バイクに興味のない人にはその見栄をまったく理解できないことだ。価値や高性能がわからない素人でも、姿形を見れば「なんだかわからないけどスゴイ」と感じられるデザイン力がクルマにはある。スーパーカーが好例だ。

しかしバイクでいうところのスーパーカーに当たるものは、ともするとバイク趣味を持つ人でもそれを理解できない。2200万円のRC213VーSと80万円そこそこのCBR250RRの区別がつかなくても不思議ではない。裏を返せばそれは、無理に見栄を張ってバイクに乗らなくてもいいということでもある。むしろバイクは意地で乗るのだ。
 
見栄と意地というものは衣服に似ている。いうなれば見栄は上着、意地は下着だ。部屋の中にいるなら下着姿でも全裸でかまわないが、玄関のドアを開けて外へ出るなら何かしらの衣服を身に着けなければならない。それはわいせつ物陳列罪という法を犯すからという理由もあるが、それだけではない。人は羞恥心というこれまためんどくさい感情を持っている。法で縛られずとも、人は衣服を着なければ他者に姿をさらせない生き物なのだ。

ただし世の中はうまくできたもので、下着とたいして変わらないというか、ほぼ同じ面積しか肌身を隠さないにもかかわらず、それさえ身に着けていれば他者の面前で恥ずかしくもなければ違法でもない、水着という衣服がある。これは意地でもあるし見栄でもある。

見栄と意地は対極にあるものではなく、見栄の中に意地があり、意地の中にも見栄がある。

俗に衣食住という。クルマもバイクも、見栄と意地なくして楽しめない。もっとも見栄と意地の張り方もそれぞれで、高価なモデルや大排気量車とは対極にある、安価な小排気量車を楽しむことこそ見栄であり意地だったりもするから、クルマ・バイク趣味はやめられない。

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text:山下 剛/Takeshi Yamashita
1970年生まれ。東京都出身。新聞社写真部アルバイト、編集プロダクションを経てネコ・パブリッシングに入社。BMW BIKES、クラブマン編集部などで経験を積む。2011年マン島TT取材のために会社を辞め、現在はフリーランスライター&カメラマン。

イギリスとやせ我慢

text:吉田拓生 撮影協力・Witham Cars


素っ裸で椅子に縛られ、荒縄の先の結び目で股間を叩かれ苦悶の表情を浮かべるジェームス・ボンド。冷や汗をびっしょりかいた彼は次の瞬間、薄ら笑いを浮かべながら「おい、右の玉が痒いんだ、掻いてくれないか?」とこの期に及んで相手を挑発するのである。あれはブラフか、はたまた壮絶な痛みを越えた先に、常人には思いも付かない快楽があるのだろうか?

「イギリスとやせ我慢」というテーマを聞いて、最初に思い浮かべたのは、ダニエル・クレイグ主演による007の第1作目「カジノロワイヤル」の拷問シーンだった。果たして冷や汗を伴う睾丸ネタが、ボンドの永遠の愛車であるアストン・マーティンとどう結びつくのか?

ともあれ、実際にイギリスの諜報部員だったこともあるイアン・フレミングが原作を書き起こした007シリーズの主人公、ジェームス・ボンドは、イギリスのオトコの理想を体現したものであるに違いない。男前で特別な地位にあり、クルマの運転と人殺しが上手く、いつもポーカーフェイス。そしてひとたびドアが閉まればひたすら悦楽に興じる。

今日世界中にあるとされる秘密クラブの発祥はロンドンにその原初を求めることができるし、女人禁制のシガークラブなどというものも、オトコたちが煙と戯れながら快楽に思いを巡らせるための集まりであるに違いない。イギリスに落日がないのは、太陽が落ちた後の彼らを神様が信用していないから、と言われるのはそのためである。

ヒトラーを支持する男爵議員、オズワルド・モズレーの息子であり、オックスフォード大卒、レーシングコンストラクターであるマーチの創業者にして弁護士、4期16年に渡ってFIA会長も務めたマックス・モズレー。これ以上ないほどに貴族的なイギリス紳士である彼の趣味はロンドンの場末の秘密クラブで、売春婦にムチで叩かれることだった。10年前にその様子を収めた動画が流出した時、そこにイギリス貴族階級の真の姿を見た気がしたのは筆者だけではないはずだ。

閑話休題。

ボンドのアストンはイギリス人が言うところのfhc、つまりフィックスドヘッドクーペなのだが、しかし現実なセンにおける「イギリスのやせ我慢」を上手く表現しているのはヴォランテ、つまりオープンカーの方だろう。

地中海沿いの地域に住む人間はオープンカーを温かい季節の乗り物だと捉えており、その助手席には美しい女性を乗せている優美な様が思い浮かぶ。一方イギリス人は敢えて寒い時期にひとりで乗り込むことを潔しとする。真冬にディアストーカー(耳当て付きのハンチングキャップ)の耳を降ろし、オイルド・バーブァーの襟を立てて肩をすくめ、小雨が降る中を「飛ばして走れば濡れないぜ」とばかりに駆け抜けていく泥っぽいモーガンを想像してみてほしい。

一般的な見方をすれば、あれこそが典型的なやせ我慢、見栄っ張りの構図である。あんなに寒い思いをして、何が楽しいのだろうか? と。僕自身も長らく、あれこそがイギリス的やせ我慢の真骨頂に違いないと思っていた。けれど一方ではそんな姿に大いに憧れる自分もいて、バーブァーを手に入れて、オープンカーに乗って……。

かたちから真似てみると、やせ我慢の奥にある悦楽がおぼろげながら見えてくる。襟元に後方から巻き込む風は酷く冷たいのだけれど、強力なヒーターで熱された足元は温か過ぎるくらい。これとよく似ているのは雪中の露天風呂だろうか。頭に濡れた手ぬぐいを載せてもなお、顔に当たる外気は冷たいのだが、なぜか心地良いというアレである。

もちろん真冬のオープンカー・ドライブはガマン一辺倒であり、本当の愉しみはクルマを降りた後の一杯の紅茶、煌々と炎を湛えた暖炉、そしてパートナーの待つ寝室……と人ぞれぞれかもしれない。それでも我々外野から見た「イギリスのやせ我慢」は、それ自体が大いなる愉しみを秘めているかどうかは別にしても、実は万人が羨ましがるようなカッコ良さを、ものの見事に表現したものであることだけは確かである。

でなければ、裸で睾丸をいたぶられるような醜態をさらしたダニエル・クレイグが、後に「史上最高のボンド俳優」という評価を得られるはずがないではないか。

やせ我慢の先にある何か。そこに悦楽の端緒を感じ取った人物が、服装術を身に着け、モノに拘り、そしてモーガンのような本物に傾倒していくのだと思う。

■THE MORGAN 4/4
FORD SIGMA 1,599cc, 112ps, 795kg
車両本体価格:7,668,000円(消費税込)

■THE MORGAN PLUS 4
FORD GDI 1,999cc, 156ps, 928kg
車両本体価格:8,208,000円(消費税込)

■THE MORGAN ROADSTER
FORD 3.7 CYCLONE 3,726cc, 284ps, 950kg
車両本体価格:9,936,000円(消費税込)

■THE MORGAN 3-WHEELER
S&S V-TWIN 1,979cc, 69ps, 585kg
車両本体価格:7,668,000円(消費税込)

問い合わせ先:Witham Cars(モーガンカーズ東京北)
TEL:03(5968)4033
www.witham-cars.com

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text:吉田拓生/Takuo Yoshida
1972年生まれのモータリングライター。自動車専門誌に12年在籍した後、2005年にフリーライターとして独立。新旧あらゆるスポーツカーのドライビングインプレッションを得意としている。東京から一時間ほどの海に近い森の中に住み、畑を耕し薪で暖をとるカントリーライフの実践者でもある。

僕が高いクルマを買う本当の理由

text:橋本洋平


「いつも高いクルマばかり乗っているよな!」

昔からまるでお小言を食らうかのように、周囲からたまにそんなことを言われてきた。

そのニュアンスを聞けばおおよその予測がつくのだが、それは決してポジティブなものではない。どちらかと言えば「小僧のくせに生意気な」、もしくは「何を見栄張っているんだか」といったところだろう。分不相応であることは重々承知している。その姿はさぞかし滑稽に映っていたことだろう。だが、決してそれを止める気はない。何と言われようと、冷たい視線を浴びようとも、僕には目的があったから。それは運転が上手くなりたいということである。

高校生の頃に熱中していたクルマ雑誌で「3年後、5年後にスーパースポーツを自在に操るためには、いま何に乗るべきか?」みたいな企画があった。最初はハチロクでスタートして、その後はターボのシルビアに、そして最後はスカイラインGT-Rに乗れ!という感じである。まだ免許も持たず、おかげで純粋過ぎた橋本少年はその言葉を信じ切り、免許を取得後にそれを忠実に実行する。

けれども、時代が少し変わったせいか、はたまた己の好みも入ったのか、ハチロクだったはずがユーノスロードスターに、シルビアの予定がS2000にと、車種はややゴージャスかつ軟派に、そして高価になったことは否めない。

言い訳をすればハチロクはプレミアがつき始めて価格と内容がアンバランスだったし、シルビアは改造費にお金がかかりそうだと感じたから敬遠しただけのことである。おかげで学生時代からローンを払い続ける生活にすっかり慣れてしまった。分不相応な生活はここから始まった。その後、フェアレディZ、ゴルフR32を乗り継ぐことに。最長で72回均等払いを経験した覚えがある。

ただ、その甲斐あってどんなクルマが相手になろうとも、ソコソコ乗れるようにはなってきた。時にはプロドライバーと比べても遜色のないラップタイムを叩き出したのだ。当時からレースもかじり、それなりの戦績を残せていただけに、通ってきた道に間違いはない、そう信じ込んでいた。
しかし、それはある1台のスーパースポーツによって、もろくも打ち砕かれることになる。2007年末に登場した日産GT-Rがそれだ。今は無き仙台ハイランドスピードウェイで行われた発売直前の試乗会において、全く持って乗りこなせている感覚が得られなかったのだ。脳ミソが置いて行かれてクラッとするぐらいのスタンディングスタートから、重量級なのに強烈なGを発生させるコーナーリングまで、これまでに体験したことのないものばかりだったのだ。

あれを何とかして乗りこなしたい……。そう考え、その時に持っていたものをすべて処分。マーチカップカー、ゴルフR32、CB400SB、そしてわずかながらの貯金まで切り崩してGT-Rを購入するための頭金に突っ込んだのだ。それでも月々の返済は都心のワンルームマンションの家賃並み。パラサイトシングルだったからこそ成せるワザ(?)である。

周囲の冷たい視線はこの頃がピークだった。当たり前である、何といっても国産最高峰なのだから。コミコミたしか900万円。金利が70万円近かった。そこまで高価だったにもかかわらず、猫かわいがりすることなくサーキットも思い切り走らせた。しかし、結局最後まで払うことなく、そのGT-Rにも2年ちょっと乗ったところでお別れする時がきた。世界のスーパーカーが来ようとも、ちっとも怖くない感覚とスキルが仕上がったからだと言いたいところだが、本当の理由は維持費が大変になってきたからだ。

タイヤは1回交換したが、安く買っても4本で25万円。ブレーキパッドも残量はわずか。ミッションからイヤな音が出始め、直すには載せ換えるしかなく、金額は320万円だと脅された(今では安く修理できるらしい)。お別れせざるを得なかったというのが正直なところだ。もっと乗っていたかったな……。

だが、こうして常に分不相応を選び続けた結果、僕は成長することが出来たのだと確信している。愛車に相応しい男になろうと努力を重ね、それに追い付き、追い越した。まるで姉さん女房をもらうかのようなクルマ選びは、当初の目的へと導く最適解となった。

たしかに無理をして高いクルマに乗ってそれを自慢するだけで終われば、見栄っ張りでカッコ悪い行為ということになるだろう。だが、そこにクルマに対する考えや思い、そして愛がある限り、自由であっていい。世間体を気にすることなかれ。背伸びしたクルマ選びは、決して悪いもんじゃないと僕は思う。

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text:橋本洋平/Yohei Hashimoto
自動車雑誌の編集部在籍中にヴィッツ、フォーミュラK、ロドスターパーティレースなど様々なレースを経験。独立後は、レースにも参戦する“走り系モータージャーナリスト”として活躍している。走り系のクルマはもちろん、エコカーからチューニングカー、タイヤまで執筆範囲は幅広い。「GAZOO Racing 86/BRZ Race」には、84回払いのローンで購入したトヨタ86 Racingで参戦中。

スポーツシングルの美学

text:伊丹孝裕


「一期一会」、「一所懸命」、「一蓮托生」……など、日本語には「一」を含む熟語がいくつもある。そうした言葉には人としての心得やなすべきふるまいが含まれていることも多く、他の数字にはない高い美意識が漂う。

例えば「一輪挿し」といった物の名前でさえもそうだ。かつて千利休が豊臣秀吉をもてなした際、茶室の装飾をすべて排して一輪の朝顔だけをそこに生けたと言われている。周囲には多くの花々が美しく咲き誇っていたが、それらをもすべて摘み取り、美をたった一輪に集約したのだ。

それ以下では成立しないが、それ以上は無粋。一輪挿しにまつわるこのエピソードはミニマリズムの有り様として語り継がれ、いつしか日本人の琴線に触れるようになったのである。あるいは「一」に限らずとも、箱庭や俳句のように小さく凝縮された世界にそれを感じるのも同様だ。

多数をひとつに。大を小に。

そうやって削ぎ落とし、切り詰めていくことに日本人は価値を見出してきた。誰かに対する見栄でもなければ、誰かを負かそうとする競争心でもない。そこにあるのは、自身の美学とどう向き合うかという内面的な世界である。

そうした世界観を2輪に照らし合わせるなら、ひとつのピストンを動力源とするシングルエンジンがそれだ。見栄を張れるような豪華さを盛り込む余地はなく、排気量が同じならマルチシリンダーのパワーには敵わない。比較や競争の原理にとらわれない、本質を知るライダーにそれは選ばれてきた。

シングルは「分かる人には分かる」というエンスージアズムの上に成り立ってきたため、決して台数は見込めず、日本ではやがて1台のモデルに集約されていった。ヤマハのSRである。

出ては消えていく多くのモデルとは裏腹に、1978年に登場したこのシングルは、ほとんどなにも足されないまま今に至る。排ガス規制やABSの装着義務化を前にして現在は生産を休止しているものの、ヤマハは近い将来復活させることを明言。必要最低限の機能と簡素なスタイルを貫いてきたSRは、日本人の美意識が生んだシングルの象徴と言ってもいい。

とはいえ、そういうノスタルジックな味わいはシングルのほんの一面に過ぎない。軽く、スリムという構造上のメリットを活かした、ライトウェイトスポーツとしての資質にその真髄があるからだ。

シングルを操るという行為はマシンのポテンシャルを探ることではなく、持てるスペックをフルに引き出すこととほぼ同義である。スロットルを振り絞れるだけ振り絞って加速し、コーナリングでは旋回スピードをとことん追求する。立ち上がりでは一発一発の爆発が路面を蹴り飛ばす、そのトラクションを全身で感じながら再びスロットルを捻り上げ、むさぼるように次のコーナーを求める。

かつてスポーツシングルはその発露として存在していた。マシンと対峙しながらそのスペックを使い切れた時の充足感にライディングプレジャーが詰まっていたと言ってもいい。

そこに快楽を覚えたライダーが増えれば当然競争心が芽生える。日本はもとより世界中がそうしたムーブメントに包まれ、80年代から90年代中盤にかけて高性能スポーツシングルが次々に登場。レースも隆盛を誇ったが、やがて多くのライダーがライバルよりもマシンと1対1で向き合い、ライディングの質を高める道を選んだ。

コース上で誰かを打ち負かし、ラップタイムで上回ることよりもいかにマシンと身体をシンクロさせるか。心底シングルに魅せられたライダーはそういう境地へと辿り着き、絶対的なスピードと華やかさを選んだマルチシリンダー派との分岐点が生まれた。

シングルにあって、マルチシリンダーにはないもの。それはトルクを意のままに掴むダイレクト感だ。気筒数が増えれば増えるほどエンジンはスムーズになるが、分散された爆発力がトルクへ変換されるには微妙な待ち時間を要する。

実際にはほんのわずかなタイムラグであり、その後やってくる怒涛の加速がすぐさま帳消しにしてくれるものの、プロセスよりも速さという結果を優先したマルチの300km/hと、150km/hまでの快楽だとしてもマシンとの濃密なコミュニケーションが図れるシングルのどちらを求めるか。そこにあるのは価値観の違いである。

ひとつ言えるのは、ライディングプレジャーの根幹はGを全身で感じ、それを受け留め、いなし、立ち向かいながら車体をコントロールすることにある。それを堪能するならバイクは軽量スリムに越したことはなく、体も身軽にしておいた方がいい。余計な加飾はもちろん、見栄や虚勢は足かせになるだけだ。少なくとも世の中のシングル乗りはそれを知っている。


■ハスクバーナ VITPILEN(ヴィットピレン)701
車両本体価格:¥1,355,000 (税込、7月発売予定)
エンジン:水冷SOHC 4バルブ単気筒(LC4)
排気量:693cc(105×80mm)
車体重量:約157kg(ガソリン含まず)
最高出力:55kW(75ps)/8,600rpm
最大トルク:72Nm/6,750rpm
www.husqvarna-motorcycles.com/jp/vitpilen/

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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。
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