世界を獲った男の責任 〜坂田和人が筑波を走った本当の理由

世界を獲った男の責任 〜坂田和人が筑波を走った本当の理由

アヘッド 全日本ロードレース選手権第5戦

そのレースとは去る6月30日に開催された全日本ロードレース選手権第5戦(筑波サーキット)のことである。レース結果を先に明かしてしまうと、第1レースは10位、第2レースは5位だった(*)。かつて世界GP125㏄クラスで2度チャンピオンに輝いた坂田和人の、この5位という結果をどう見るかは人それぞれであろう。

私はレースそのものにももちろん興味はあったが、「あの坂田和人がなぜいまこのタイミングで全日本のような激戦区のレースに出場したのか」ということが不思議でならなかった。

1994年と1998年に世界GP125㏄クラスで世界チャンピオンを獲得し、1999年を最後に一線から退いたものの、彼自身は一度も「引退した」とは言っていない。実際、2004年と2005年に同じく全日本ロードレース選手権で筑波サーキットを走り、元世界チャンピオンの実力を見せつけている。

しかし、当時、坂田はまだ30代。レース感(勘)も十分に残っていた。2018年の今、一線から離れて20年近くの月日が流れ、すでに51歳。なぜ今、わざわざ、これからもっと上を目指そうという自分の子どものような年齢の若者たちに混じって走ったのか。

本人に聞かずにはいられない。そう思った私は前回の取材から5年ぶりに坂田和人に会いに行くことにしたのである。

*現在、このレースは2ヒート制が採用されており、土曜日に予選と決勝レース1、翌日に決勝レース2が行われる。

アヘッド 全日本ロードレース選手権第5戦

▶︎レース当日、教え子たちに囲まれる坂田和人。一緒にレースを闘った約半数が、教え子だったという。「本当にやりにくかったですよ」と本人は笑うが、彼らにとっては大きな刺激となったことだろう。

待ち合わせのファミレスで挨拶がひととおり終わると、彼の開口一番は「いやあ、もうホントに出たくなかったんですよ」だった。

話を聞くと、それもそのはず。坂田和人が走るのだから当然、勝算はあるはず。マシンもパーツも人も全てが整った体制で挑むのだろう、誰もがそう考えたはずである。が、事実は全くそうではなかった。

きっかけを作ったのは彼の高校時代の後輩であり、親友でもある若松宏希氏だったという。「坂田さん、一度レースに出てもらえませんか」 若松氏の言葉に坂田は即答した。「やだよ。レースはお金も時間も掛かる。なんのために出るの?」 若松氏に限らず、これまでも冗談めいてレースに出ないかと誘われたことは何度もあった。その度に断ってきたが、しかし今回の若松氏はしつこかった。

若松氏には12歳になる息子がいる。今年、中学1年生になったレイ君は、坂田が校長を務めるMFJロードレースアカデミーの生徒でもある。若松氏は講師を務める坂田の走りを実際に見て、彼の走りが今も少しも錆びていないことを知っていた。

「坂田さんをもう一度走らせたい。自分の息子やアカデミーの子どもたちに彼の走り、レースに対する姿勢、メカニックとのコミュニケーション、集中力、オーラ。その全てを見せたい。坂田さんもすでに51歳。今しかない」 その一心が若松氏を動かした。

若松氏自身、国際A級ライダーとして全日本を闘ったライダーだ。「もう一度坂田さんの走りを見たい」 それはほかでもない若松氏の夢でもあった。

坂田は次第に若松氏の勢いに押される。「おれには百害あって一利なし。多くの人の期待を裏切ることになるかもしれない。デメリットしかないじゃん」と言いつつも、「確かに自分が校長をしているアカデミーやMuSASHi(武蔵精密工業)スカラシップの生徒たちに走りを見せるという点においてだけは意味があるかもしれない」

そして昨年(2017年)10月の終わり頃、「参戦してもいいけど、最終的に納得いく状況でなければ走らないし、ぎりぎりになってやめるかもしれないよ」という条件付きで承諾したのである。

アヘッド 全日本ロードレース選手権第5戦

ここから2人の悪戦苦闘が始まるわけだが、若松氏にはたくさんの誤算があった。まずは資金である。若松氏はレースに関わる資金は全て自分が用意する、と決めていた。昔、全日本に参戦していたときの感覚で、1戦だけなら、車両を除けば80万円か90万円もあればなんとかなるだろうと予想していたが、試算してみるとそれでは全然足りなかった。

アカデミーの親御さんや知り合いから集めた資金だけでは足りず、困っていたところ、昭和電気株式会社の柏木社長が声を掛けてくれた。最終的に出るか出ないか分からないのにと躊躇したが、「若松さん、それでもいいよ。走らなかったからお金を返せなんてケチなことは言わない。坂田さんの思うように、好きなようにやってもらおうよ」 そのおかげで一応の目処が立ったのである。

マシンは若松氏がたまたま知人から買い取って手元にあったもの(NSF250R)を使うことにした。フルノーマルの市販品だ。初走行は10月30日。吊るしのまま、パッと乗って1分01秒07のタイムを出した。

でも実は、最初、若松氏はエンジンの掛け方すら分からず、マニュアル片手に始動したという。4ストのマシンは初めてだったのだ。当初予定していたメカニックの都合が悪くなったこともあり、GP時代にメカとして坂田に帯同していた実弟が手伝ってくれていた。しかし彼もまた若松氏と同じく4ストは初めてだった。

「坂田さんは走るたびに2ストだったらこうなのに。2ストだったらもっとこう動いてくれるのにってずっと言ってました」

2ストと4ストではマシンの特性が全く違う。そのことは坂田自身、以前に2度ほど若手を引っ張るために乗ったときに分かっていたことだった。ある程度のタイムは出せるが、乗っていてもどこかピンとこない。その上、今のマシンは何かしようとするとコンピュータに頼らざるを得ないが、データロガーを見るために必要なコンピュータやシステムを買う予算も、人員もなかった。

「今考えたら恐ろしいです。時代が違うことに気づいていなかった。このデジタルの時代に坂田さんをアナログで走らせようとしていたんです。坂田さんは練習中にもデジタルの時代にアナログでは限界がある、と言っていたんですが」

それでもシェイクダウンの日にようやく坂田は「やろうか」という気持ちになった。しかし若松氏の誤算はまだあった。とにかくやれることは全てやろう。走れる枠は全部走ろう、そう決めたのに、筑波サーキットで坂田が走れるスポーツ走行枠は月に2度あるかないか。しかも25分枠が1日2本あるだけだった。

それもまた時代の読み違えと言っていい。2人が現役バリバリの頃には走行枠も1日の走行回数ももっと多かった。それに比べるとこれでは何もできないに等しい。結局、レースウィークが始まるまでに10周以上の連続走行の機会を持つことはなかった。

そういう状況だったから、リアサスに問題があると気づいたのもレースウィークに入ってからだった。ノーマルのリアサスはリザーバータンクのそばをマフラーが通っている。そのため、熱でリザーバータンク内のオイルが沸騰して泡立ってしまう。一度気泡ができると全く機能しなくなるのだ。乗っていても違和感があり、乗れば乗るほどおかしくなって行った。

一方、土曜日になってようやく、かつて坂田がGPでチャンピオンをとったときのメカが2人応援に来てくれて、ここで初めてチームが揃った。それまではアカデミーのお父さんたちが手伝いだった。

この日の公式予選、坂田は1分01秒193のタイムで9番手だった。30台のうち9番目なら十分じゃないかと思うが、本人が目標とする最低ライン、00秒台前半には入らなかった。

「予選が終わって、坂田さん、走るの走らないの? どっちなの?」と若松氏は気が気ではなかったが、坂田は「重樹さんと話してくるわ」と行ってしまった。そして話は冒頭に戻るのである。

どのようなことにも白か黒か、右か左か。全てを自分で決めてきた坂田和人が決断を他人に委ねた。元世界チャンピオンとしての自分の立場、期待して観にきてくれているファンのこと、応援してくれているスポンサーのこと。考えれば考えるほど判断は難しかったのだろう。

一方、いつもはどんな質問にも即答する本田氏が長い間沈黙したことに、坂田自身も驚いたという。坂田が本音では走りたくないだろうということも十分に理解していたはず。あらゆることを考えたうえでの「まずは1レース走ってみないか」だった。

「1レース走ればとりあえずはみんな納得してくれるだろう。その上でその先進めてもダメだと思えばやめればいいし、もっとやろうと思ったら、何かを変えてもう1レース走ればいいじゃないか」と。

アヘッド 全日本ロードレース選手権第5戦

「それで肩の荷が少し降りて、状況はどうであれまずはレース1を走ろう。ダメならダメなりに走り切ればいい、と切り替えられました。まさか坂田和人のレース出場の決定を自分がするとは思ってらっしゃらなかったでしょうね」と坂田は笑う。

そしてレース1を10位で終え、日曜日の朝、リアサスを気泡の出来にくいオーリンズにそっくり変えた。15分のウォームアップランを走ってみたら、そこそこいい感触を得た。決勝までの間にさらに調整をしてサイティングラップを走ると、朝の15分より良くなっている。

そして迎えた決勝レース2はスタート直後、アクシデントによりレースは赤旗中断する。中断後の2度目のサイティングラップでトップグループの次の集団でなら走れる、そう思ったという。想定は6位以内。13番手グリッドからスタートして一気に8位までジャンプアップ。気がつくと6位まで順位を上げていた。レースを観ている誰もがもしかしたら表彰台か、そう期待したはずである。

「6番手にいて何度か前をプッシュしてみたんですが、ついては行けるが抜くには至らなかった。赤旗の影響で20周のレースが13周に変更されていましたし、この7周の差は大きいんです。何かアクシデントがない限り、この短いレースでは前が落ちてくることはない。ならばここを走ったという事実ではなくて、このレースをフィニッシュしたという結果を残そうと思いました。観ている人にはつまらなかったかも知れないですが」

そして、最終的に5位でフィニッシュした。

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▶︎MFJロードレースアカデミーの子どもたちと。

「レースが終わったとき、僕、涙が出ました。坂田さん、事前テストで転倒して足を引きずってて、それでも一生懸命走ってくれて。本当に感動しました」

坂田もインタビュー中、何度も「辛かった」と口にしたが、辛かったのは若松氏も同じだっただろう。なにせ気むづかしいことで有名な坂田である。「はい、僕は坂田さんのサンドバックでした」と苦笑いするように、坂田は苛立ちを全て若松氏にぶつけた。

若松氏が至らないと感じたときは遠慮なくそれを口にした。坂田がそれを言うのは若松氏との関係を大事に思っているからだし、若松氏もそのことをよく理解していた。坂田も「お前に言われなきゃ走らなかったよ」と言ったが、若松氏も「坂田さんを走らせることができるのは自分しかいない」と知っていた。

坂田は言葉に対して厳しい人である。引退という言葉を使わないのも、一度そう言ってしまったら二度とは走れない(走らない)からだろう。だから、インタビューの際、坂田が若松氏を「親友」と呼ぶのを聞いて、私はなるほど、だから坂田は走ったのだなとすぐに納得がいった。彼は若松氏のために、ひいてはレイ君のために、さらにはアカデミーやスカラシップの子どもたちのために走ったのである。

なんと坂田らしい話だろうか。

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▶︎坂田和人と同じメーカー、同じデザインのレザースーツを着る若松氏の長男、レイ君。

坂田はプロである。だから坂田にしてみれば、若松氏にとっての「誤算」も全て予想していたことだった。資金のことも、今は昔と違ってデジタルの時代であることも、走行枠のことも。ただ1つ読み違えがあったとすれば、デジタルに頼らずとも、もう少しアナログ(ライダーの乗り方など)でアジャストできると思っていたことくらいである。最初からデータロガーなどをフルに活用できればもっと結果は違っていただろう。

でも、全てわかった上で、それでも走ったのである。昔のように自分自身のプライドのためでもなく、お金のためでもない。友情のために、後進のために、不利な条件の中で真っ向勝負したのである。世界チャンピオンとしての責任を果たした、と言ってもいいかもしれない。

結果として、しかし、私たちも夢を見た。誰もが50代になった坂田の今に注目し、固唾を飲んで見守った。自分たちもまだ頑張れるかもしれない、頑張ろう、そう思った人がどれだけいただろう。こう言ってはなんだが、普段は空席の目立つグランスタンドにもたくさんの人が入った。決勝の後には、涙ぐみながら拍手し、坂田を取り囲んで「ありがとう!」と声を掛ける大勢の人の姿もあったという。

この坂田の参戦が、彼が自分の後ろ姿を見せたかったと言うアカデミーの子どもたちにとっても、またその親御さんたちにとっても、往年のファンにとっても、はたまた大きな意味では二輪業界全体にとっても、なにかの〝始まり〟になるのではないか。そうなればいい、と心から願わずにはいられない。

アヘッド 全日本ロードレース選手権第5戦

●Kazuto Sakata
1966年東京生まれ。自分で稼いだ600万円の貯金を手に世界グランプリに挑戦。1991年から1999年まで125ccクラスで活躍し、'94年、'98年と2度の世界チャンピオンを獲得した。時に不利な条件でも圧倒的な速さを見せつけた。記憶と記録に残る堂々たる日本人のチャンピオンである。


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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。

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