特集 脱ステレオタイプ宣言

人の目を気にしない クルマ選びをしよう 嶋田智之

クルマの雑誌を編集したり記事を書いたりクルマのイベントでしゃべったり…なんていうのを長いこと生業にしてきたせいもあって、友人・知人、あるいはその関係者の〝次期愛車選び〟に、何らかのカタチで関わったことは数知れない。中にはクルマの買い替えを考えてるときぐらいしか連絡をしてこないような昔馴染みだっている。電話で話すだけのときもあるし、呼び出されてお茶をしながらああだこうだとやりあうときもあれば、つきそいで一緒にディーラーなりユーズドカー専門店なりマニアックなショップなりに行くこともあれば…と様々だけど、そんなとき、僕は期せずして、彼ら彼女たちの心の中にある希望と現実、葛藤、ときとして諦念みたいなモノに向き合うことになるわけだ。

 僕のようなある種スレたような人間と違って、一般的に〝クルマを買う〟という行為は人生における一大イベントのひとつ。家やマンションを買うのに次ぐ、大きな買い物でもある。頭を悩ますのは当然であると思うし、迷う気持ちもよく解る。その悩んだり迷ったりすることも含めて、クルマ選びを楽しんで欲しいとも思う。だから放っておく。質問されたらマジメに返すし、望まれたなら代替案をクチにしたりはするけれど、基本は語りたいだけ語ってもらって僕は聞くだけ。多くの人は他人に相談するときには、ほぼ気持ちが固まっていて、誰かに認めてもらいたかったり背中を押してもらいたかったりするだけなのだから。僕としては穏やかに頷いたり、崖っぷちから気持よーく転落していってもらえるよう尻を蹴飛ばすのみ、なのだ。

 ところが、どうしても頷いたり蹴ったりをしたくないときがある。普段はやらない反論をしたり説得を試みてみたりと、余計なお世話的な抵抗をしてみちゃったりもする。そういう考え方でクルマを選んで欲しくないな、と思うからだ。

「御近所さんの目があるから……」

「取締役が◯△で部長が△○だから、それより目立つとマズイ……」

 つまり、自分の意思でクルマ選びをしていないのだ。意外にも、この類の言葉を聞く機会はいまだに多い。

 そうした人達によくよく話を聞いてみると、欲しいクルマもしくはカテゴリーはあって、予算もそれなりにかけられて、単純に家庭環境だけ考えるならそのクルマもしくはそのカテゴリーのクルマを選んでも何ら問題はないのに、周囲を気にして、全く望んでるのとは違ったクルマ選びをしようとしてる、というような流れであることが多い。端的にいうなら「スポーツカーが欲しい」とか「輸入車を買いたい」とか、そうした希望を持っていて現実性もあるのに、それほど好きでもなく興味もない中から何か少しでもマシなクルマを選べないか…? と考えてる。僕は〝自分を騙さない限り満足はあり得ないだろう〟と応える以外ない。

 まぁ周りとの調和を考える昔ながらの日本的な考え方は美徳といえば確かに美徳なのだろうし、そうした奥ゆかしさにも似た気持ちを小馬鹿にしたりするつもりもない。

 でも、たかがクルマのことで崩れちゃうような調和はそもそも綺麗にカタチができてるモノとは言いがたいし、もしその程度で崩れちゃうようないい加減なバランスなのだったら、別のところを補強することで埋められたりするんじゃないか? なんて考えたりするところもある。

 僕の知人夫妻を想うと、どうもそんな気がしてならないのだ。亭主は左ハンドルのちょっと古いクーペ、奥方は日本車だけどオープンカー。子供がいないからできることとはいえ、世の中的に見ればかなり好き勝手なチョイス、となるだろう。

 亭主は勤め先の旧い商社ではデスクの上に自分のクルマのミニチュアカーを置き、本当はそう苦しくもないのに後輩の前ですら「クルマのために節約」なんて言いつつ一番安いランチを選び、クルマ馬鹿だから仕方ないと思わせてるという。奥方は屋根を開け放って近所の奥様連中を交代交代で平日ドライブ&お買い物に連れ出し、慣れさせちゃったらしい。周囲の人間関係にも仕事にも日常生活にも全く問題なく、ふたりとも「楽しくやってるよ」という。ちょっとしたアクションと、それを自分のキャラクターにしてしまう気持ちのいい開き直り。必要なのは、どうやらそれだけだったようだ。

 さて、周りを気にしたクルマ選びをしようとしている皆さんが今ここにいらっしゃるのだとしたら、お訊ねしたい。ホントにそれでいいんですか? 自分の価値観にフタをして、他人の価値観に合わせて何百万円の買い物をしちゃうわけですけど、ホントにそれでいいんですか? もしかして、他人から見たあなたが本当のあなたの姿であるだなんて、思い込まされたりはしていませんか? 本当のあなたは、あなた自身の心の中に今この瞬間も生きているんだっていうこと、忘れていませんか?

 大袈裟に思われるかも知れないけれど、意外やそんなところに自分自身のレーゾンデートルに関わる問題が隠れていたりするものだ。

 ──新しい年が動きはじめた今。自分の心の中にある〝真実〟にもっともっと目を向けていくことを決める、ちょうどいいタイミングだと思うのだけど…いかがだろう?

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嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

今どきのクルマのウソとホント 世良耕太

なんとなくそういうものだと信じている現象や行為が、実は思い込みと違うことがある。たとえば、「4WD(4ホイールドライブ)は雪道や悪路に強い」という思い込みがあるようだが、これは半分合っていて、半分は合っていない。確かに前2輪、もしくは後2輪で駆動力を路面に伝えるFFやFRより、4輪に駆動力を分散して伝える4WDのほうが低ミュー路(すべりやすい路面)での発進性に優れるのは確かだ。

 だが、ひとたび走り出してしまえば、2WD(2ホイールドライブ)と4WDの差はそんなにはない。とくに、ESC(横滑り防止装置)を搭載しているクルマなら、2WDであっても4輪のブレーキ力を走行状況に応じて自動で制御するので、常にクルマの姿勢を安定した状態に保ってくれる。

 ただし過信は禁物だ。とくに止まるとき。アクセルを戻しただけの状態ではエンジンブレーキ力が4輪に分散される分、2WDに比べれば4WDの方が安定性がある。だが、発進時ほどのアドバンテージはない。止まることのできる能力はタイヤのグリップ力とクルマの質量(軽い方が有利)に多くを依存するからだ。「4WDだからよく止まれる」わけでは必ずしもないのである。雪道で調子に乗るのは禁物だ。

 雪道を走る機会の多い季節が続くが、4WDだからといってドライ路面と同じようにスパッと止まれるわけではないし、ABSが付いているからといってピタッと止まれるわけではない。大切なのはやはり、タイヤのグリップ力である。雪道ではスタッドレスタイヤを履くのが必須。「力を伝えるのは駆動輪だから、FFなら前輪、FRなら後輪だけ履けば十分」という声を聞くことがある。発進時の蹴り出しはそれで十分かもしれないが、止まることになると話は別。4輪を履き替えるのが鉄則だ。

 燃費を気にするドライバーが増えてきた。そのせいか暗くなってもヘッドランプの点灯を我慢する人たちがいると聞くが、それは間違っている。走行中のクルマで使用する電力は、オルタネーターで発電した分でまかない、足りない分はバッテリーに蓄えた分から供給する。エンジンが始動している間は、基本的にオルタネーターは自動的に作動し、黙っていても電気を作り続けている。だから、その間はヘッドライトを点けようが消そうが燃費には影響しない。しかしアイドリングストップ装着車は、電力の使用状況に応じ、停車中でもオルタネーターを作動させるためにエンジンを始動することがある。その場合、ヘッドライトのオン/オフによる影響はないとは言い切れない。

 だがそれよりも「省燃費運転をするんだ」と意識しながらアクセルワークに気を遣った方が、はるかに低燃費効果は高い。ヘッドライトのオン/オフを気にするより、燃料の消費に直接影響のある行為に気を配った方が、当然、省エネ効果は高いのだ。「発進時にいきなりアクセルを強く踏まない」「アクセルペダルの動きはできるだけ一定を保ち、ブレーキを踏まないで済む運転を心がける」「停止位置を予測し、早めにアクセルオフするよう心がける」など、省エネ運転のコツはいろいろある。が、ワザの実践に神経を使うよりも、単に意識するだけで1〜3割も燃費は変動するものなのだ。

 ヘッドライトの点灯を我慢することがおすすめできない理由その2は、被視認性だ。日が暮れて暗くなっていく時間帯にヘッドライトを点灯することが大事なのは、「自分が周囲をよく見るため」ではなく、「相手に自分の存在を知らせる」意味合いの方が強い。クルマが近づいていることを他車や歩行者に知らせることで、アクシデントを未然に防ぐのが目的だ。雨や傘などで視界が遮られがちな雨天時は、日中からヘッドライトを点灯するよう心がけたい。電気の節約によるわずかな燃料の節約(したつもり)より、安全性確保の方がはるかに重要だ。

 また、省エネのつもりで、信号待ちの際にシフトレバーをNレンジに入れるケースも見受けられる。Dレンジに入れたままブレーキを踏んでいるとトランスミッションに負担がかかって耐久性に影響を与えそうだし、燃費にも響くと考えがち。だが、実際はそんなことはない。最近のクルマはDレンジに入れたままでも、停止時にニュートラル状態になる制御になっているし、エンジン回転を下げて燃料の消費を抑える設計になっている。だから、停車時はDレンジに入れたままブレーキを踏んでいるのが、もっとも省エネなのだ。

 ディーゼル比率の高いマツダCX─5のヒットによって、ディーゼルエンジンに対する「うるさい」「振動が大きい」「黒煙を吐く」といったステレオタイプな常識は、過去のものになりつつある。ガソリン車に比べて静かだとは言い切れないが、車内にいて耳に聞こえるノイズは、外にいて耳に届くほどではない。音や振動に敏感な日本のユーザーに向けて、多くのディーゼルエンジン搭載車が、海外で販売する仕様に比べて遮音や振動対策に気を遣っているのも事実。

 実際のところ、ディーゼルらしい音が耳に届くのは、アイドリング時および微低速走行時のみと言っていい。速度を増すごとにロードノイズ(タイヤの音など)や風切り音が大きくなり、エンジン音をマスクしてしまうからだ。そもそもディーゼルエンジンは低い回転で大きな力を発生するから、高速走行の際にエンジン回転を上げる必要がない。結果、高速道路では静かなクルマになる。ガソリンとディーゼルの区別もつかないほどだ。燃焼技術と後処理装置の進化により、黒煙も皆無。どんな状況でも周囲に気兼ねすることなく、アクセルペダルを踏み込むことができる。

 ディーゼルと同様に、ガソリンターボの常識も変わってきた。かつては、ターボと言えば高出力の代名詞で、パワーと引き換えに燃費の悪化を覚悟しなければならなかった。

 それも今は昔。最新のガソリンターボエンジンは、燃料を吸気ポート内に吹くポート噴射ではなく、燃焼室内に直接吹く直噴が定番。この技術を採用することで燃焼を緻密に制御することができるようになった。加えて、ターボチャージャーの進化も著しく、排気のエネルギーを効率的に利用できるようになっている。そのため、現在のターボエンジンは、かつては当たり前だったターボラグ(アクセルペダルの操作に対する応答遅れ)が体感上はなく、低回転から即座に力が沸き上がる頼もしいエンジンに仕上がっている。

 熱として捨てていたエネルギーを回収して吸気圧を高め、実際の排気量以上の空気を燃焼室に詰め込んで燃やすので、排気量は小さくても力は出る。低回転域から力が出るので、高速走行でも高回転まで回す必要はなく、だから、燃料の消費が少ない。同クラスはもとより排気量の大きな自然吸気エンジンに比べて燃費がいいのはそのため。まさに、いいことづくめなのだ。

 1990年代に高出力ターボ車に乗っていた筆者は、一般道でタービンブローを経験して面倒な事後処理に追われ、「二度とターボ車に乗るもんか」と誓ったが、現在ではすっかり、走り良く、燃費がいい省燃費ターボ車のとりこになっている。

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世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/


エンブレムは単なる 高級バッジではない 岡崎五朗

ブランドなんてただのまやかしさ…そんな主張をワケ知り顔で展開する人がいる。

 機能に的を絞れば、確かにそうなのかもしれない。たとえばバッグ。「中にものを入れて運ぶ」という目的を果たすだけならスーパーのビニール袋で十分だ。食事だって生命維持に必要なカロリーを摂取するだけなら100グラム300円の輸入牛で事足りる。

 ならばなぜ、人は何十万円もの値札を付けたブランドもののバッグを欲しがるのだろう? どうしてわざわざ100グラム3000円のブランド和牛を食べたがるのだろう?

 その答えは「人間だから」に尽きる。人は生命維持と繁殖だけを目的に日々を過ごしているわけではない。与えられた境遇のなかで、今日より明日をよりよくしたいと誰もが考えながら生きている。それが不満の要因となり世界中で多くの争いごとが起きているのも事実だ。しかしよりよい生活を諦めるのは、人間が人間らしさを放棄するのと同義。ときにはありのままを受け入れる穏やかさも必要だろうが、「こんなもんでいいや」という価値観が過剰に蔓延すると必ずや文明は停滞する。

 人間らしい豊かな消費活動と創造活動の結果、生まれたもののひとつがブランドであるなら、それを一概に否定するのは不自然な行為だろう。

 もちろん、安易なブランド信仰に走るのは賢い行動とは言えない。高級ブランドのロゴが入ったライセンス生産の安物トイレスリッパを考えれば自明の理。ブランド哲学が一分も反映されていない以上、そこにカネを払うのは愚の骨頂である。売り手側にとっても同じ。喜んで買う人が大勢いればロゴ入りトイレスリッパは一時的には莫大な利益をもたらす。しかしそういった行為はブランド価値をすり減らし、長期的な収益性を著しくめることになる。

 そう、哲学なきブランド戦略は誰の幸福にもつながらない。ブランドとはバッジでもマークでもなく、背景に潜む歴史、哲学、ストーリーをバックボーンとした商品作りの憲法ともいうべきものだ。そしてそれに共感した人たちの心酔度や伝搬力が強力なブランド力を生み出していく。つまり、いかに巧みなブランド戦略を実践しようとも、肝心の商品に説得力が宿っていなければ共感など絶対に生まれないということだ。

 念のために言っておくと、必ずしも高級だけがブランドではない。牛丼の吉野家はBSE騒動の際、米国産牛肉にこだわり牛丼の販売を一時休止した。「我々が目指す味は豪州産牛肉では絶対に出せない」という強いこだわりが主力商品の販売休止という思い切った方針を生み出した。これも立派なブランド戦略である。

 そんな観点からクルマを眺めると興味深い事実が浮かび上がってくる。紙面の都合上、個々のブランド解説をすることはできないが、ひとつ言えるのは、フラッグシップとエントリーモデルを眺めればそのブランドが大方わかるということ。フラッグシップはブランドとして打ち出したいことを示し、エントリーモデルはブランドとして最低限守ろうとしているレベルを示しているからだ。

 なかでも注目したいのがエントリーモデル。仮にそれが単に安く作ることだけを目指しているようなクルマだとすれば、トイレのスリッパレベルとは言わないけれど、そのメーカーの商品へのこだわりは牛丼以下だと判断せざるを得ない。商品だけでなく、テレビCMなどによる訴求方法にも同じことが言える。

 僕はかねてからカタログ燃費とコストのみを重視した国産コンパクトカーの在り方に疑問を投げかけてきた。それに対し「きれいごとだ」とお叱りを受けたこともある。しかし「ブランド」なるものを「ご先祖様から譲り受けた看板を背負っている以上無様なことはできないというプライド」と言い換えれば、その欠如が良質な商品を生み出していく上で大きな障害になり得ることをご理解いただけるだろう。

 その点、欧州メーカーには、常にそういった老舗意識が強く働いている。価格はそれなりに高いが、それはバッジ代ではなく随所に込められたこだわりへの対価と考えるべきもの。もちろん、それらのこだわりをひとつひとつ紐解いていければ論点はよりクリアになる。が、現実問題としてカタログや広告ですべてを解説することは不可能だ。そこで重要な意味を帯びてくるのが「ブランド」なのである。

 ブランドを意識したモノ選びの本質とは、バッジを見せびらかすことではなく、そのブランドがもたらしてくれる価値を信じること。売り手側が買い手側と交わす約束がブランドだと言い換えてもいい。だとするなら、ブランドとは断じてぼったくりをするべく慎重に計画されたものなどではない。ましてや僕の長年の経験から言うなら、クルマは他の商品よりもその傾向が強い。ブランドを信じれば自動車専門誌を読まずとも間違いのないクルマ選びをすることができる可能性がかなり高いのだ。

 もちろん絶対はない。だからこそブランドの背景にあるこだわりを解説することと併せ、ブランドにそぐわない手抜きがあれば遠慮なく指摘させてもらう。それこそが、我々メディアの大きな役割だと思うからだ。

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岡崎五朗/Goro Okazaki
1966年生まれ。モータージャーナリスト。青山学院大学理工学部に在学中から執筆活動を開始し、数多くの雑誌やウェブサイトなどで活躍。テレビ神奈川の自動車情報番組『クルマでいこう!』に出演中。

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