花・咲く・頃から

戦争の打撃や混乱がおさまり、ニホンが高度経済成長期に入った、その5年後に生まれた私の〝記憶〟はクルマから始まる。おそらくクルマが庶民の暮らしに入ってくる時期とヒトとして思い出を積み始める時期が重なっているのだろう。

 初期の記憶には、金属音がつきまとう。カンカラカンカラカーンという派手な音。長い間、あれはなんの音だったろうかと不思議だったが、あるとき佐野洋子のエッセイを読んではっとした。ホイールキャップが外れる話が記されていた。

 走行中に外れたホイールキャップを拾いに走ったのはいつも助手席に座る母だった。カンカラカンカラカーンと派手な音をたてて転がっていくホイールキャップを母がどこまでも追った。運転は父の仕事、走るのは母、こう決めたのは父だったのか、母だったのか。佐野洋子はエッセイのなかで「ホイールキャップが縁石にぶつかってコロコロころがって行っても『サヨナラネ』と手を振っていた」 (『がんばりません』新潮文庫より)と記しているが、私は追う女とさよならと手を振る女の差より、ホイールキャップが外れることがさほど珍しいことではなかった、こちらに驚く。'60年代、クルマというのはこういうものだったのだ。




 カンカラカンカラカーンと派手な音をたてて転がったホイールキャップを装着していたのはトヨタ・パブリカで、これが我が家の最初のクルマである。

 1961年にデビュウしたパブリカを長い間、パプリカと思い込んでいたが、車名がパブリックをイメージした造語と知って感慨深かった。パブリック・カー、大衆車というネーミングが購買意欲を刺激した時代はまさにモータリゼーションの夜明けだったのだろう。

 1964年、東京オリンピックの年、ピンク!のパブリカがやって来た。父は当時、東海村に建設中だった原子力発電所に単身赴任中で、家との往復のために買ったようだった。父は幼稚園が夏休みに入ると家族を呼び寄せた。阿字ケ浦のそばに夫婦が営む小さな民宿があって、そこの一部屋を借りて海水浴を楽しむためだった。

 国内の電力需要が高まり、エネルギーの活路を求めて建設が決まった発電所はぐんぐん成長するニッポンの象徴だったが、一方で民宿の片隅には客の残飯を食べる豚がいた。泊まり客が食べ残しを持って豚に近づくと、大きな豚は嬉しそうに鼻をふがふがと鳴らす。豚は調理場の横に直接つながった小屋に住んでいたが、その向こうに我が家自慢のパプリカが見えた。帰る日の朝、見送りに出てきた民宿のおやじに「オタクのクルマはウチの豚と同じ色だわなあ」と言われ、父がむっとした。その横顔が今も忘れられない。

 豚色のパブリカには4年ほど乗った気がする。次なるマイカーはツートンカラーのダットサンだったが、このクルマの印象はきわめて薄い。田園調布にあるカトリックの女子校にあがった私ははじめてお金持ちの暮らしを知ったからで、お金持ちの暮らしには〝外国〟が入り込んでいることに仰天し、そちらに気をとられた。仲良くなった友達は産婦人科医の娘で、お母さんがカルマン・ギアのステアリングを握った。助手席には毛皮の腹巻きをしたマルチーズが座っていたが、はじめてこの犬を見た日、ブレーキを踏むと目が光るのかと尋ねて怪訝な顔をされた。あの頃、ブレーキを踏むと目が光る虎のぬいぐるみをリアに置くことが流行していたのだ。マリちゃんはね(これが犬の名前だった)、言葉がわかるのよと娘は言う。「銀行ってママが言うと通帳の入った鞄を取ってくるの」。好物はヨーグルトで、私は犬が好むヨーグルトをほとんど食べたことがなかった。

 ウチにも外国のクルマがあるといいなあと思ったが、言うのは控えた。考えてみれば私が知る外国のクルマはこのカルマン・ギアとベンツだけで、ベンツは3億円くらいするからウチには無理だと心得ていた。この額を想ったのは三億円強奪事件があったとき、2つ違いの姉が「ベンツとか凄いクルマが買えるくらいのお金が盗まれたんだよ」と言ったからである。

 ダッツンが父の妹の一家に引き取られたのをきっかけに次に登場したのはスバル1000。前輪駆動、水平対向エンジン、センターピポット式ステアリング搭載、エンジニアの父が見せた唯一のこだわりと今になってしみじみ思う。父はたいそうこのクルマをかわいがっていたが、そのわりにしょっちゅう壊れた。燃料ポンプの不具合でガソリンが回らず、ボンネットをあけて父がガソリンを吸い上げた。父親参観日にもバザーにもガソリンを吸っていたために遅れ、家族のを買った。父もさすがにマズいと思ったのか売りとばしたが、次に彼が選んだのもスバル1000で、これには女一同、言葉を失った。どうして一緒に選ばなかったのだ、姉が母を責めると彼女は言った。「だって機械はお父さんの領域だから」。クルマは機械だったのだ。

 この2台目スバル1000を最後に我が家はマイカーなしの時代に入る。'70年代はじめのことだったと思う。この時期、家を建て替えたことでクルマに手が回らなくなったためだった。父は相変わらず休みもせず会社に行き、子供たちはそれぞれ自分の世界を持ち始めていた。

 

 次にクルマが登場するのは私が大学に入り、免許を取った年。就職の最低条件として免許が要るといわれていたから、私は18を迎えてすぐ教習所に通った。これだけで人生が計画通り進んでいるような気分だった。

 免許を取ったからにはクルマが欲しい。父に懇願するとそれからほどなくして我が家にビートルがやってきた。出張費を貯めて買ったと聞いて、姉が「あれほど働けばね」と嫌みを言った。あの頃、すべてのニッポンのサラリーマンがそうだったように、父もひたすら働いたが社長になったわけではない。姉はクルマに興味がなく、それを幸いに私がビートル担当となった。

 鎌倉の自宅から東京の外れにある大学までしょっちゅうクルマで通学した。戦後は終わり、高度成長期も終わり、バブル景気が始まる前の安定成長期と呼ばれた時代だったが、まだコンピュータはもちろん携帯電話もなく、それどころか留守電もCDもワープロも一般化されていなかった。クルマで流す音楽はカセットテープで聞いた。それでも豊かになったという実感は誰にもあって、成人前の私ですら自分の子供時代との差に驚愕する思いだった。カルマン・ギアからわずか10年、父が出張費で買った中古のビートルとはいえ、アタシもガイシャをころがしている。

 世には女子大生ブームなるものが押し寄せていた。女子大生がもてはやされるなどニホンだけであろうと頭の隅で思いながらも、私はその波に乗り遅れまいと必死だった。ビートルに乗って波に乗った。波に乗るにはうってつけのクルマだったが、心のどこかでいつも何者でもない自分に焦りがあって、焦れば焦るほど波にのり損ねるからさらに焦った。それまでのちゃちな人生のなかではじめて悩んだが、何に悩んでいるのかそれがわからなかった。

 ちょうどその頃、仲のいい友達がフェアレディZに乗る彼と別れた。卒業まで待てない、学生結婚すると騒いだふたりである。なんで?、私が尋ねると彼女が口籠る。彼が留年して、怒った親がゼットを売り飛ばした。「デートってクルマがなかったら成立しないのよ」。さしもの私も呆れて二の句が継げなかったが、あの時代の大学生の象徴的なエピソードだったと思う。クルマ離れといわれる現代の若者に聞かせたらなんと言われるだろう。

 大学4年の初夏、3ヶ月の予定でロンドンに出かける。卒業を目の前にしても将来に目標はなく、いったいよその国の若者は何をしているのだ、それが知りたいと再び親に頼み込んだ。いや、親には英語を磨きたいです、みたいなことを言ったのではなかったか。この経験が私の人生を変えたわけではなかったが、それでも世界の若者は働いている、自分の意見を持っている、「ウワー、かわいい」とか「アタシ、怖ーい」、「ソアラかコスモ、持ってる男じゃないとイヤ」、こういうことは言わない、それだけはわかった。私を週末、ディスコに誘ってくれたのは同じ下宿に住む13歳のフランス人の女の子で、彼女と話が合うことで自分の幼児性を突きつけられた。「人生ってなんだろうね、ヒトはどうして生きるんだろう」、彼女は私にこう尋ね、それは私が疑問に思っていることに他ならないのだった。




 ニホンに戻って慌ただしく就職試験を受けた。1983年、晩秋のこと。相変わらず何がやりたいのか、皆目、見当がつかずにいたが、偶然、新聞で『カーグラフィックの二玄社が来春、新自動車雑誌を創刊するにあたって、女性の編集アシスタントを募集する』、こんな求人広告を見つけた。男女雇用機会均等法が施行される前で、こういう求人が多かった。仕事の内容が見えることに魅力を感じ、それだけで勇んで応募したが、結果は思わぬものだった。編集アシスタントは別の女性に決まったが、編集でよかったら参加しないか─。アシスタントは美人がよい、これが編集部の方針だったと後から聞かされた。

 クルマのことはどうして走るのか、まったくわからず(これは今も同じだが)、スタッフがマニアックなクルマ好きの集団であろうことはく想像できたから腰が引けた。私同様、ビビったのは父で、声高に反対したのは姉、ひとり母だけが悠然と言った。「こういう出会いもひとつのご縁じゃないかしらね、縁っていうのは逃れられないものなのよ」。入社を決めたのが11月、大学卒業は翌年の春だったが新雑誌の創刊は2月と決まっていたから、12月にはいるとアルバイトで編集部に通いはじめた。

 新雑誌の名前はNAVI、ナヴィケーターのナヴィである。ハードのCG、ソフトのNAVI、これがキャッチフレーズだったが、今でもこのキャッチがNAVIのポジョションをもっとも明確に表していると思う。クルマは機械だからお父さんの領域だと母が言った日から20年をへて、機械のくくりだけではおさまらぬほど、大きな変革を遂げた。それは同時に時代の変化であり、社会と暮らしと、そして個人の意識の変化であった。数値だけでは評価出来ぬクルマを言葉で語ろうと試みたのがこの雑誌である。

 編集は総勢6人の小部隊。編集長から新人までほぼ5歳ずつ、年齢が異なっていた。それぞれの性格や考え方、なによりクルマとの向き合い方には格段の差があって、この違いが私には新鮮だった。終戦の年に生まれた編集長は西洋文明の産物としてアカデミックな視点でクルマをとらえた。団塊の世代、圧倒的な知識量を持つ副編はイデオロギーの視点から、その下の編集者は道具と趣味の中間のようなカタチでクルマを追い、彼より4歳下の、東京育ちで人当たりのよい慶応ボーイはトレンドやサブカルチャーとしてのクルマの分析に強みを見せた。彼よりひとつ下、私と同期で口数のすくない男性は岐阜育ちの早稲田卒、漫研出身、圧倒的な面白さを持つ原稿を書いた。まったくもって個性も趣向も育ちも異なる集団だった。職場が同じでなかったら絶対、友達にはならないタイプ、しかしこの〝違い〟が雑誌の武器だった、そんな気がする。

 こんな集団のなかで自分は何を負えばいいのか、年を重ねた今の私ならおじけづくところだが、あの頃は彼らの様子を眺めるだけで面白かった、いや不思議だった。もっと不思議だったのはクルマが誰の〝愛〟も受け止める懐の深さを持っていることで、歴史伝統、政治経済、技術から思想、建築、芸術、音楽、映画、テレビ、広告、趣味余暇、クルマをあらゆる分野でとらえることが出来ると知って呆然とした。呆然としながらクルマに乗ると此処ではない場所に行くことが出来て、おまけにクルマによって行くまでの時間の質が異なる、そこにまた感心する。

フランス車にのると時間はゆっくり流れ、気持ちが中にっていく。自分を大切にしよう、なんて思う。イタリア車にのると時間がはずみ、気持ちが外に向いた。今日のアタシ、イケテルなあ。ドイツ車は教訓をたれる。ニホン車は勤勉で親切だが、どこか幼稚なところがあって、父と母とそして我が身を想わせた。

 自動車メーカーに電話をかけると「ほお、珍しい、鍋の雑誌ですか」と言われた日が過ぎ、時代とマッチしたのだろう、NAVIの売り上げがぐんぐん伸び始めた。私がその後、関わるようになる姉妹誌『カーグラフィック』がテレビ番組をはじめたのもこの時期だ。BMWが六本木のカローラと呼ばれ、カタログでしか見たことのなかった珍しい外国車がカンパチに並ぶ、そんな時代になっていた。

 雑誌が売れるようになったことで仕事が増えたが、仕事をしても褒められることはなかったかわりに、仕事をしなくても何も言われなかった。女だからと差別されることもなく、クルマを知らないからと除外されることもなかった。世間の常識や組織の枠組みよりどんな些細なことでも個人の考えが大切にされた。これがNAVIの強みであり、弱さでもあったと思う。もっとも影響を受けたのは、雑誌を生み出した創刊編集長にかわって陣頭指揮を取った副編、鈴木正文と短編小説を寄稿した作家の矢作俊彦。彼が著した『スズキさんの休息と遍歴』はこの副編がモデルになっている。

 ベルリンの壁が崩壊した翌年、NAVIを辞めてイタリアに移り住むことにした。「女がお茶を煎れて感謝される職場なんて、それだけでアンタ、すっごくいいところにいるんだよ」、初期の時代からNAVIにコラムを連載した渡辺和博(彼がエンスーという言葉を生み出した)にこう言われたが、確かにNAVIを辞めることが心残りだった。それでもNAVIに入らなかったらイタリアに行こうなどとは思わなかっただろう。

 私はたくさんのクルマに乗ってクルマの持つ世界の広さに圧倒されていた。走りはもちろん、シートの大きさや沈み具合や素材、把手の形状、ラジオのスイッチのカタチにいたるまでクルマごとにまったく異なる。それはシートをどう捉えるか、その違いであり、捉え方の違いは結局のところ、作り手の生き方の違いのように私には思われた。だからアタシは外国に住みに行くワ。姉に言うと「シートからいきなりそこまで飛ぶわけ」と呆れられたが、シートにニホン人とは異なる価値を求めるヒトを間近で見たくてたまらなかったのだ。

 クルマをつくっている国ならどこでもよかったが、イタリアを選んだのはやっぱり気に入っていたのだと思う。仕事で訪れ、わけがわからなかったのはイタリアだけだった。なぜこれだけヒトは喋るのだ、いったい何を喋っているのだ、これだけ喋っているのになぜ、何も決まらないのだ。これが不思議であり、面白かった。クルマまで喋っているように感じられた。無表情なクルマやむっつり顔のクルマはたくさん知っていたが、喋るクルマはイタリアで初めてみたような気がする。

 引き止められたらその手をふり払って旅立とうと思っていたのに、編集部の誰もが「いいじゃん、いいじゃん」と言い、副編からは「おー、気をつけて行けよ」と肩をたたかれた。矢作俊彦にいたっては「美味いもの、あったら送れよ」と言われる始末。1990年2月、5年の間に親友となった美人アシスタント、山田由喜恵に見送られて飛行機に乗った。

 

 最初の半年をフィレンツエで語学習得に費やした。永遠の別れのつもりで終止符を打ったNAVIだったが、イタリアに渡って1ヵ月後にはスタッフの元慶応ボーイが取材でボローニャにやってきて喜んで会いに行った。「まあまあ、そう気張らないで原稿、NAVIに書けばいいじゃん。テレビもやればいいじゃん」。学費と下宿代を支払うと残ったお金はわずかだった。モノを捨てることが嫌いだった母の反動か、私はゴミからモノからお金までためることが苦手、この先どうしようかと思っていたから、彼の言葉に少し気がラクになった。春先には同じスタッフとトリノショーの取材に出かけたのだが、語学習得にめどがついたらトリノに越すと決めたのはショーで再会した内田盾男に勧められてのことだった。「クルマが縁でイタリアに来たんでしょ。だったらトリノに住まないとまずいんじゃない?」

 1965年にトリノに渡り、老舗カロッツェリアを率いたタテオはニホン人自動車デザイナーの草分け、イタリアの自動車業界では知らぬヒトはいない。わずか2度目の出会いだったにもかかわらず、アパート探しから生活の立ち上げまで、細かな面倒をみてもらった。日本語のわかる親切なイタリア人、これは内田さんの兄で作家の内田幹樹の言葉である。

 彼のみならず、トリノでは実にたくさんの自動車人に出会い、そして助けられた。仕事で知り合ったヒトばかりではない。この街ではほとんどの人間が自動車に関わっている。それがトリノという街だった。クルマに誘われるようにしてこの街に来た私には頼もしく感じられたが、古くから住む人々はアニエッリというひとりの男が生み出した豊かさと変革にあえぐところもあって、それがトリノの影となっていた。それでも想像していた通り、ヒトはみなお喋りで、好奇心が強く、他人と関わることを好んだ。「聞かずにはいられないのよ、アナタ、いったいどこの国のヒト?」、こう言って市場でオバさんに腕をつかまれた。「きみはこの国のことが何もわかっておらん、エスプレッソは甘くして飲むものだ」、私のカップに滝のごとく砂糖を注ぎ、脱水機のごとくスプーンでそれをかき回したのは、バールで隣り合わせた紳士だ。

 あの頃の私はピョンピョン跳ねるように歩いていたと思う。実際、アパートのそばで新聞を売るキオスクのおばさんに「アンタの国のヒトってみんなそうやって歩くの?」と聞かれて赤面した。そういえばこのおばさんがあるとき、こんなふうに呟いた。「昔はアタシみたいに仕事を求めて南イタリアから移民してきた人間に部屋を貸すのを嫌がるトリノ人がいっぱいいたもんよ。今や、東洋の女がアパートを借りられる。いい時代になったもんだわね」。そんな差別があったことより、東洋の女と言われたことに傷ついた。傷ついた私はいったい自分を何ものと思っていたのだろう。

 今でこそ、姑にいわせれば「トリノはニホン車だらけよ」、こういうことになるのだが、ニホンがガイシャブームに湧くあの頃、輸入台数に制限が設けられていたために日本車は稀だった。同じようにニホン人もとても少なかった。ソニーやパナソニックは知られていたが、ニホン人を初めて見たというヒトも少なくなかった。トリノに住む日本人というだけで重い扉がすんなり開き、思わぬ場所を見せてもらえることがあった。エンツォ・フェラーリが毎朝、出掛けた床屋で話を聞いたことは一番の思い出。本でしか知らなかった、ダンテ・ジアコーザ、ピニンファリーナ一家やレオナルド・フィオラバンティ、エルコール・スパダといった自動車人に会ったり、自宅に招かれることもあって喜びながらも不思議な気持ちだった。

 もっとも印象に残っているのはシチリア出身の塗装職人。凄い腕と人づてに聞き、愛車、チンクエチェントの塗装を頼みに行った。凄い腕がどのくらい凄い腕なのか見当もつかずに出かけたのだが、後からメルセデスがすべて、ショー・モデルの塗装を彼に依頼していると知って仰天した。実際、郊外の仮設みたいな、テントで囲まれた作業場の前にドイツナンバーの社用車がずらりと並ぶこともあったが、本人はシチリア弁まるだしの私と同じ年齢、ため息が出た。予算と技術は売るほどあるメルセデスが社内でもなく国内でもなく、彼に依頼することでクルマ作りの難しさを見る思いだったが、彼が行う塗装と他の人が行う塗装に生まれる差はいまだわからない。その差が大きいものなら、どうしてそれほど大きな差が生まれるのか。その差が小さいものなら、その小ささがどれほど大きな影響を与えるのか、いまだ見当もつかない。

 トリノに住むようになってはじめて出かけたパリサロンでシュトゥットガルトからやってきた奥山清行に同僚のデザイナーを紹介された。ポルシェが初めて採用したイタリア人だという。もちろんこのときは、3年後に彼と結婚するとは思いもしなかったし、その後さずかる息子がエンスーになることも、クルマ嫌いの娘が生まれることも想像だにしなかった。

 私はいま、家族とともに南仏に住む。イタリアにわたってから22年、この間に母が亡くなり、NAVIがなくなり、親友、山田由喜恵が亡くなり、そして父も舅も亡くなった。親しい人を失うたびに怒りと哀しみと時間の流れを恨んだが、気持ちを癒したのもまた時間の流れである。

 技術の進歩がもたらした暮らしの変化にも相変わらず驚く毎日。トリノ時代、空港で探したニホンの新聞をネットで読み、ニホン語の本は頼んだ日から1週間とせぬうちに手元に届く。携帯電話を使って湘南ビーチFMを聞き、姉に日本語でメッセージを送る。アイロンと間違われるような大きな携帯電話を担いで仕事をした日を私は昨日のことのように覚えているが、歴史のバカロレア試験を控える息子は「俺には1930年代くらいの気がするナ」と言う。そういえば当地に赴任した若い駐在員の奥さんに私が自動車雑誌に勤めていたと話したら、「昔は自動車の記事は雑誌で読んだそうですね」と言われて苦笑した。NAVIが終わるのも頷ける。

 技術は進歩したが、しかし火山灰が舞えば飛行機は飛べず、流通は途切れる。津波に襲われればなす術を持たない。自然の前では人間は無力だ。世界ではいつもどこかで戦争が続き、飢えた子供がいて、居場所を失った難民があふれる。技術が進歩してもすべてのヒトの心が静まることはない。

 私は今もクルマに乗る。黒いパンダに乗っている。「なぜ日本車に乗らないのか」と尋ねられるたびに、ニホンは大切にとってあるのだと答えている。洒落半分、本心半分。自分がニホンと切り離せないことを異国で知った。かつては、ニホン人っぽい考え方、ニホン人らしい振舞い、こうくくられては抵抗を覚えたが、今ではこれがアタシなのだと自覚している。自分で言うのもなんだが(と前置きするところがニホン人である)、勤勉で礼儀正しく親切、真面目で幼稚で心配性、高い基礎学力を持つが創造性に欠け、極端を恐れ、調和にくつろぎを覚え、オドオドしたところがあって、ついヘコヘコする自分は日本人そのものの、ニホン人であることが私の根であり核となっている。こう自覚することは異国で自分の居場所を見つけるには役立つが、時として見つけた居場所は孤立感を生む。

 ニホンはもうヨーロッパにもアメリカにも中国にも〝勝つことはない〟と日本人の誰もが言うが、勝つことが意味を持つ時代は過ぎたと思う。強いリーダーやとびぬけた創造性を持った天才は出なくても、ちょっとしたアイデアをみんなの工夫と協力でカタチにする、それくらいの資金はある、こういう、一見、カンタンに感じられることが出来る国を私はニホン以外に知らない。ニホンに戻ってコンビニで売られているおにぎりの、実に複雑な包み紙を手にするたびに、こんなことを考え出すのはニホン人だけだと感心する。

 ニホンってすごくいい国だよね、ニホン人ってすごくいい性格だよね、毎日こう思って暮らしているが、ニホンに暮らすニホン人が誰も同調してくれないのが寂しい。

 遠くなる祖国と近くなっては壁を築く異国の間で私は今日もクルマに乗って右往左往する。

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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。

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