責任と品格

仕事の品格と存在意義 伊丹孝裕VS神尾 成

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まとめ:伊丹孝裕 photo:渕本智信


神尾 スマートフォンやパソコンの販売店などが代表的だけど、いつの頃からか「多分、そうだと思います」とか、「ウチじゃなくて〇〇へ言って下さい」という不誠実な言葉を聞くことが多くなった。それが今どんどん広がって、責任の所在が明確じゃないままなんとなく物事が進み、最後まで仕事をまっとうしない場面が増えている。

会社や社会のシステムが複雑になったとはいえ、ひと昔前は許されなかった対応が平気でまかり通る時代になった。皆リスクを回避することばかり意識している。

伊丹 責任を放棄するだけではなく、それを誰かに転嫁するような物言いに直面することが増えましたね。実際それに対して怒りを覚え、説教じみたことを言う機会がここ数年で飛躍的に多くなりました。自分がある程度年齢を重ねたこともありますが、年上よりも年下、ベテランよりも若手と相対する場面が増えて、そういう人達の仕事に対する意識の希薄さに愕然とさせられることが度々あります。

神尾 年齢や世代的なこともあるだろうけど、世の中全体のレベルが下がってきている感じがする。例えば、仕事のメールの返信をしない、留守電を入れても電話を折り返してこないなんていうことが当たり前のようになった。

立場や責任がある人であってもお金をもらってる意識が弱くなっている。「忙しい」が理由として通じてしまう時代なのだろう。また、SNSの普及が影響しているのか、仕事とプライベートの分別がつかない人が増えてきた。

伊丹 いろいろなことが友達感覚になっているように思います。仕事のやりとりをしているメールなのに、平気で(笑)とか(汗)とか使われることも珍しくなく、それまで何度か一緒に仕事をしてきた間柄ならまだしも、会ったこともない人ですらそう。

神尾 妙に慣れ慣れしかったり、逆に目があっても挨拶ができなかったり、人と人の距離感がひと昔前とは随分と変わってきている。編集部の学生アルバイトの話だけど、会社に掛かってきた電話の応対が、「はい、〇〇さんならいますよ、代わりますか」といった感じで全くなってなかった。

けれどそれには理由があって、物心がついた時には携帯電話があったので固定電話に出たことがないと言うんだ。見ず知らずの人と対話する必要がなかったらしい。そういうことを含めて、本来10代のうちに通過しているようなことを社会に出た20代で学び、20代で知っておくべきことを30代でようやく経験する。そんな風に世の中全体の成長速度が遅くなっている気がする。

また親子の関係も友達感覚になってしまった。男の子にとって父親は人生の道標であり、目標だったはず。社会に出たら父親の位置までいかなければと無意識のうちに生き方の基準にしていたように思う。お互いに窮屈な関係だったかもしれないけれど、どこかに信頼し合っている安心感があった。しかし現代はそれが希薄に見える。

伊丹 多分それは今に始まったことではないのでしょうが、少なくとも僕ら世代までは父親に対してどこか緊張感がありましたし、外に出たら出たで面と向かって怒ってくれる、口うるさい上の世代がいた。

では、今の僕がその立場に取って代われるかと言えば、スルーしたり、我慢してしまっていることも多い。なぜなら、上の世代から受けてきたやり方で同じようにプレッシャーをかけると簡単にツブれてしまうから。それがちょっと怖い。

神尾 どの世代もコンサバになって、互いに距離を保ちながら生きていく世の中になったから。経済的な先行きが不透明なことも無関係ではないように思う。特に仕事に関しては、マニュアルの域を出ず、そこから一歩踏み込んで考えたり、人の気持ちを汲もうとするところまでは至らない。

そもそも仕事というよりも、大半の人が作業するだけで終わってしまっている。本来は、その仕事をする意味を考え、理解して初めて仕事の意義が生まれるのに、それを意識的なのか、無意識なのか、多くの人が避けようとする。

伊丹 雑誌作りの現場もそうで、クルマやバイクを準備して、カメラマンとライターのスケジュールを抑えるまでが編集の仕事だと思っている人がすごく多い。それはまさにただの作業であって、テーマを考えて、それに見合うロケーションを探して、撮りたいモノ、伝えたいコトをカメラマンとライターに相談し、コミュニケーションを図りながら練り上げる。

それが仕事であり、編集者の醍醐味じゃないですか。なのに「とりあえずひと通り撮っておいてください」とか「新車紹介ですから適当に」みたいな発注が当たり前になっているんですよね。今、雑誌が売れなくなっているのだとすれば、それは我々も含めた作り手側の熱量の問題だと思います。

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神尾 よく言われる調理人と料理人の違いだ。調理人は用意された素材を決められた手順と時間で調理して、その名の通り、メニュー通りに作業すればいいのだけど、料理人は素材選びから始まり、それを元にメニューを考えて料理を創り出すことをいう例え。だから、仕事に向き合う時は、自分がやっていることは料理になっているのか、マニュアルや作業だけになっていないかって常に自問自答を繰り返さなきゃいけない。

伊丹 そういう意味では、2輪専門誌は特に根が深い気がします。調理にしろ、料理にしろ、それを振る舞う相手が読者というお客なら問題ないものの、現実的にはその多くがメーカーやショップになっています。

要するに、広告出稿という形でお金を出してくれるクライアントのための記事作りを仕事だと勘違いし、商品を「褒める」ことでそれを維持、あわよくば追加してもらうための手段に一生懸命になっているという意味です。そこにはジャーナリズムのカケラも読者に対する責任もなにもなく、子飼いの犬としてエサ欲しさに鳴いてまわっているだけ。そういうヒドい状態の媒体がいくつもあります。        

神尾 だからといって好き勝手なことを言ってやっていけるわけじゃない。そういう社会の難しい場面での振る舞いや選ぶ言葉にその人の品格が出る。SNSを通して見える人間性はその好例。良い意味で意外な一面を知ることもあれば、不遜な態度が垣間見れて信用や仕事を失う人もいる。

ソーシャルメディアは内面的な部分が思わぬカタチで出るだけに、立場とか羞恥心を常に意識しておく必要がある。そもそも文章を書くというのは自分の考えを人様に向けて発信するのだから、それだけで恥ずかしいことだと考えるくらい慎重でなければいけない。

伊丹 そう言われると僕のようなライターは毎回誌面で恥をさらしていることになるわけですが。ただ、それなりの年月を費やしてきてわかったことは、ずっとバイクに乗ってきたことと、それを文章で表現してきたことの積み重ねが心の拠りどころになっているのは確かですね。

昔のライディングを見るとイケていない気持ちになりますし、数年前の文章を読み返すとそれこそ「なんて恥さらしなことを書いていたんだろう」とガッカリします。ただ、そう感じるということは、今はその頃より少し成長していると言っていいのかもしれません。

だから3年後か5年後に、今回のこの原稿を恥ずかしいと思えるならそれもまた成長の証だし、未来の自分がどんな文章を書けるようになっているのかを知りたい。だから多少恥をさらしながらでも書き続けるのも悪くないかなと。なんでもいいと思うんです。

自分の軸になるものやベースになるものを見つけてやり続けてみる。好き嫌いとか向き不向きも関係なく、なんでもいいから続けていると何者かになれているんじゃないかと、そう思います。

神尾 お寺の修行僧が毎日、御堂を掃除して仏像を磨くのは汚れを落とすためにやっているのではなく、自分の心を磨いているのだと聞いたことがある。無駄とか効率が悪いとか、そういう雑念に気を取られず、掃除を通して自分を心を鍛えるということらしい。

先の話と矛盾しているようだけど、作業を繰り返すことで学ぶということなのだろう。しかし、それを漫然とやるのと、意識を持ってやるのとでは気持ちの在り様が違ってくると言う意味では同じだ。

伊丹 意志や意識ってとても大切で、僕は「意志」を「念じる」に、「意識」を「心配」に置き換えて考えるようにしています。「念じる」って、「今の心」と書きますよね。つまり、自分が目指すものやこうなりたいっていう願望を常に心に持てているかという自問です。心が空っぽだと生きがいを感じられないと思うんです。

「心配」はそのままの意味で、いかに「心を配るか」ということ。一般的には「心を痛める」という意味合いで使われますが、本来は相手の思いを汲み取ることであったり、自分の様を見つめるための心構えのことです。それを忘れなければ、自分の言葉や振る舞いに責任が出て、自然と品格が伴ってくるのではないでしょうか。

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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。

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