特集 第三京浜物語

アヘッド 第三京浜

第三京浜は オリンピックの年に 生まれた 〜第三京浜の歴史を探る〜 世良耕太

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東京都世田谷区野毛の「玉川インターチェンジ(以下IC)を起点に、神奈川県横浜市の神奈川区と保土ヶ谷区に跨がる「保土ヶ谷IC」を結ぶ全長16・6㎞の自動車専用道路が「第三京浜道路」だ。

「道路」を省略して「第三京浜」と呼ぶことが多い。京浜(「けいひん」あるいは「ケーヒン」の由来について説明しておくと、東京と横浜の「京」と「浜」を結びつけた造語である。鉄道の路線名や鉄道会社、工業地帯やオートバイの部品メーカーなどでなじみの深い名称だ。東京〜横浜間の地域一帯を指す言葉に「東横」もあるが、京浜とは組み合わせ違いである。

「第三」とあるからには東京と横浜を結ぶ3番目の道路であることは容易に想像がつく。もっとも海寄りを走るのが第一京浜(国道15号)で、そのやや内陸を走るのが第二京浜(国道1号)。これら二大幹線道路に続いてさらに内陸側に計画されたのが、第三京浜というわけだ。

基本ルートは1954年に東急電鉄が計画した「東急ターンパイク」が元となっている。東急は沿線開発を目的に渋谷〜江ノ島間に自動車専用道路を計画したが認可されず(替わりに東急は田園都市線の敷設に着手した)、建設省(当時)の事業として整備されることになった。目的は、東京〜横浜間の渋滞の解消だ。

当時、東京〜横浜間の自動車交通は、第一京浜、第二京浜に加え、産業道路(国道131号:大田区羽田空港〜大森東2丁目)と中原街道(東海道=国道1号の脇街道の位置づけ)の4路線に頼っていた。だが、いずれの道路も平面交差が多く渋滞が激しかったため、これを解消するために自動車専用道路を造る必要があるとの判断に至ったのだ。それが、第一と第二は一般道なのに、第三だけが有料道路となった背景にある。当初は国道ではなく、「都県道東京野川横浜線」として扱われた。

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撮影資料『第三京浜道路 工事報告』(日本道路公団 高速道路京浜建設局)

事業認可は1961年9月。玉川IC〜保土ヶ谷IC間を結ぶルートは、可能な限りフラットな直線で結ぶように計画された。建設は玉川IC〜京浜川崎IC間と京浜川崎IC〜保土ヶ谷IC間に分けて実施され、玉川IC〜京浜川崎IC間の2.5㎞が東京オリンピック開催年の1964年10月に暫定4車線で開通する。

環状8号線上に設けられた玉川ICから本線に流入すると、すぐに多摩川に架かるボックスプレートガーター橋の多摩川橋梁(橋長382・9m/幅員30・8m)を渡る。

京浜川崎ICから先は、多摩川の流域に発達した平地部を経由し、横浜市港北区〜神奈川区の丘陵地帯を通過して、保土ヶ谷ICで国道1号と接続する。京浜川崎IC〜保土ヶ谷IC間の14.1㎞が開通したのは1965年12月19日ことだった。

開通時のICは、玉川、京浜川崎、保土ヶ谷のほかに、港北も設置される。制限速度は80㎞/h(カーブがきつい玉川IC〜玉川料金所間は部分的に60㎞/h)に設定。中央分離帯によって上下線が分離され、日本で初めての6車線道路になったのである。

完成した「都県道東京野川横浜線」には「第三京浜道路」の名称が与えられ、東京と横浜を結ぶ重要な幹線道路のひとつとなって現在に至る。いつ通っても空いているように感じるが、上下6車線の余裕のあるつくりに加え、高低差が少なくカーブの曲率が大きい走りやすい設計による効果が大きい。1日16〜17万台の交通量があっても渋滞を起こさない、懐の深い設計なのだ。

1993年には都県道から国道466号に変更。1995年4月には都筑IC(および上り都筑PA)が供用開始となり、2005年9月に国土交通省が全国道路網の一般有料道路に指定。翌月にはNEXCO東日本の管轄路線となった。だが、独立した有料道路時代の低い料金設定(玉川IC〜保土ヶ谷IC間・普通車250円)は維持されており、走りやすさと合わせて第三京浜が支持を集める理由のひとつとなっている。

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text:世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/

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