粋 〜クルマの美学〜

ライディング アティテュード 〜「人と違う」は野暮な選択

アヘッド 粋

text:伊丹孝裕 photo:長谷川徹


「人と同じモノはイヤだったから」

話が愛車のことに移り変わると、そんな風に語る人はけっこう多い。大抵はちょっと珍しい色のバイクに乗っている程度だが、中には希少なモデルや少し変わった仕様に乗っていたり、バイク自体はメジャーな存在だとしても凝ったワンオフのカスタムが施されていたりすることもある。

確かにそれは大多数の人とは違うのかもしれない。違うのだろうけれど、その人自身を映すモノではない。なぜなら、「人と違う」がモノ選びのスタート、もしくはゴールになっている時点で人の目や評価を気にし、それにとらわれていることに他ならないからだ。とても窮屈で不自由な価値観だと思う。

ごくごくありふれたバイクでも全然かまわない。その人が本当に気に入り、とことん味わい尽くしていれば、それこそが「人と違う、その人だけのバイク」のはず。それを粋というのかどうかは分からないが、少なからずそこに美意識のようなものが宿るのは確かだ。
 
以前、勤めていた会社に毎日ベスパで通勤している人がいた。年式も走行距離も不明。外装の色も赤なのか茶色なのか、それとも単にサビの色でそう見えていたのかも不明。頑強なはずのスチールモノコックボディはいたるところに穴が空き、まさに朽ち果てる寸前…という凄まじいポンコツっぷりだった。

その代わりと言ってはなんだが、エンジンは絶好調! …ということもなく、「会社に着くまでに1回しかエンジンが止まらなければ万々歳。2回や3回止まるのはまぁ普通」と、その人は事も無げだった。

なんかいいな、と思って見ていた。その人はそのベスパじゃなければダメな人だったし、そのベスパもその人だからこそエンジンが掛かっていたのだろう。長い時間と深い付き合いが築き上げた、強い情がそこに見て取れたからだ。

別にボロいことに味わいがあるとか、ヤセ我慢がバイクの美徳という話ではない。バイクが乗り手の一部になっているような、その様がカッコよかったのである。

クルマと少し事情が異なるのはまさにそこだ。クルマは静的に存在しているだけである種の世界観が完成するものの、バイクはそこに乗り手の存在が感じられないと、どこか未完成で物足りない。単独では自立できないという物理的な問題もあるが、やはり動いていればこそ。

走って走って、時々壊れたり転んだり。タイヤをすり減らしてオイルをにじませ、明日はもう少し上手くなりたいと願い、いつかもっと遠くへ旅してみたいと思いを巡らせながらまた走る。

もしもバイクに粋な世界があるとすれば、そういうフィジカルの果てに辿り着いた1人と1台の濃密さが作り出すものだと思う。

だから、スペックや価格、メーカーのヒストリーやブランド価値に対するプライオリティはクルマのそれよりもずっと低い。まして人と違うかどうかはなんら問題ではなく、その人がどう乗っているかどうか。そこに尽きる。

そういう意味でバイクはちょっと怖い乗り物でもある。なぜなら、スロットルの開け方や車間の取り方、選ぶウェア…と、そのどれもが乗り手の心根としてバイクに映し出され、人間性が露わになるからだ。折れて曲がってサビの浮いたフェンダーは使い込んだ風格の証なのか、単なる無精なのか。本当のところは分からなくても、間違いなくそれはたたずまいとして伝わってくるのである。

粋か、粋じゃないか。その境目を定義づけるのは難しいものの、なにげない振る舞いでどちらにも転がってしまうのがバイクだ。いとも簡単に無粋な世界に陥りそうになるのを律しながら乗り続ける。ある意味バイクはとても不自由だが、そこに踏み止まろうとする人を強くしてくれる乗り物でもある。

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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。

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