雨の日はクルマの本を愉しむ

アヘッド 雨の日

狂気の世界に生きた男たちへのレクイエム

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●『バンザイラン』
福野礼一郎
双葉社 ¥1,400(税別)

text:嶋田智之

おおよそ女性の支持を得ることができないようなチョイスであることは自覚してるが、僕のベストはこれ、福野礼一郎著『バンザイラン』だ。

もしかしたらマトモな神経を持った人にはそっぽを向かれてしまうかも知れないけれど、一度でもスピードというものが持つ魔性に魅入られたような経験がある人なら、ページを繰る手が止まらなくなり、背筋を伸ばし、脂汗をかきながら、最後まで読了してしまうかも知れない。

1980年代初頭の東名高速上り線、海老名サービスエリアから東京料金所まで。青山のカフェに集まっていたクルマ好きの間で自然発生的にはじまった土曜の夜中の青山ゼロヨンは、舞台を東名高速へと移し、誰が海老名から用賀までを最速で走り抜けるかを競う公道レースに発展していった。常勝のポルシェ・ターボ、追うトランザム、RX-7、パンテーラ、Z……。苦労して手に入れた中古のフェラーリBBで、いきなり挑戦状を叩きつけた若者がいた。彼は何より、ポルシェに勝つことを欲していた。そしてトップスピードは時速300キロまで髪の毛1本のところまで迫り、狂気にも似たスピードと勝利への渇望はますますエスカレートしていき──という感じだ。

青山ゼロヨンはホントにあった。後の東名レースも〝バイザイラン〟とは呼ばれてなかったが、実際に繰り広げられていた。東名を走るために自分のクルマをチューンナップしていた男達の中には、後に日本を代表するプロのチューナーとして名を馳せた人も少なくない。

この作品の凄いところは、実際にはフェラーリは不在だったし名前も設定も少しずつ異なるけど、ほぼ全てが実在の人物をモデルにし、実際に繰り広げられたことも物語とそう大きくは違わないという点だ。作中に出てくる薀蓄やデータが強烈なリアリティに満ちてるのは、今では孤高の自動車評論家として知られる福野さん御自身が、彼らと一緒にその時その場にいたからだろう。例えば「BBのブレーキランプが爆発した。顔が熱くなるほど近い」という一文があるが、そんなのは真夜中の超接近戦で前車がブレーキングしたのを目の当たりにでもしない限り、知ることのできない感覚なのだから。

もちろん、これはあくまでも小説だ。どこまでが真実でどこからが創作かは作者のみぞ知る、に留めておくべきだろう。ただ、スピードに魅せられた男達が間違いなく存在し、彼らはその狂気の世界に全てを賭けて、全てを捧げていた。この物語は、その時代を生きた彼ら(と蛮勇になりたくてなりきれない僕達)へのレクイエムなのだろう。

何度読んでも新鮮。英国人作家の代表作

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●『深夜プラス1』
ギャビン・ライアル
ハヤカワ文庫 ¥840(税別)

おおよそ女性の支持を得ることができないようなチョイスであることは自覚していて、だからモテないという声にも頷くしかないのだけど、これはもう性分なんだから諦めるしかない。もうひとつの僕のベストはこれ、ギャビン・ライアル著『深夜プラス1』という古い冒険小説だ。

刊行されたのは、1965年。38年間の作家生活で長編小説を15冊しか残さなかった寡作な英国人作家の3作目であり、おそらく代表作だろう。

ストーリーの上っ面は単純だ。パリ在住の英国人である主人公が、無実の罪を負った大富豪をフランスのブルターニュからリヒテンシュタインまで、敵の襲撃を躱したり戦ったりしながら護送する、というベタな展開。だが、大概の骨付き肉料理がそうであるように、美味いのは肉である。危機にさらされても自分の生き方を曲げない男達。人間の強さと弱さ、優しさ。信頼と裏切り。自己との内なる闘い。むなしさと誇り。それらがハードボイルド・タッチといえばいえるが、とにかく繊細な性格描写や情景描写で豊かに綴られる。見事なエンターテイメントなのだ。

しかも、僕は少なくとも5〜6回は読み返してるけど、そのたびに味わいが少しずつ違う。最初に読んだ17歳と今の49歳では自分の中身が少し違うから、「おっ?」と興味が引っかかる部分も感じ方も異なるのは当然だ。だけど30年以上も毎回決まって「おもしろかった……」と感じ続けられるのは、この作品が小説として極めて優れている何よりの証だろう。

もうひとつ見逃せない事実がある。主人公は護送ルートの前半を、シトロエンDSに相棒や依頼人達を乗せて走る。DSはシトロエン独自のハイドロニューマチックという油圧機構でサスペンション、ブレーキ、ステアリングなどを統合制御している優れたクルマだが、そこが壊れてオイルが漏れはじめると、まるで死に向かうように次第に自動車としての機能を失っていく。その描写が凄い。

「油圧が下がるのにつれてハンドルが重くなってきた」「ハンドルは力まかせに廻さねばならない上に、車輪が四角になった感じである」「ブレーキを踏んだが効果はなかった」「これまで四角であった車輪が今では三角形になった感じであった。車の床が地面を打った」……鳥肌モノだ。こればかりは経験したことがなければ絶対に書くことはできない。僕は3回も経験したが、ここまで真に迫った描写はできない。この6頁分のためだけに本書を買ってもいいくらいなのだけど、物語はここからまた一気に面白さを増すのだ。

〝男の子〟の心を少しでも持つ大人の男達に、そして〝男前〟を極めたい繊細な心を持つレディ達に、ぜひ手に取って欲しいと思う。

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text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

クルマとは魂の解放を望む意志

アヘッド 雨の日

●『魂の駆動体』
神林長平
ハヤカワ文庫 ¥860(税別)

text:山下敦史

グーグルやトヨタが開発中の自動運転カーが、ほとんど実用段階に入っているという。

ハンドルを握るとガチガチに緊張してしまう僕なんかにとっては、そりゃあ朗報に違いないのだけど、反面、運転に人間は不要とされることに一抹の不安を感じなくもない。

この本『魂の駆動体』の前半・第1部の舞台は、そんな全自動運転の《自動車》が道路の主となった近未来だ。そこでは人の運転する《クルマ》が公道を走ることは許されず、自動車とはエレベーターと同等か、完全無人のタクシーのような存在になっている。養老院に暮らす《私》は、あるとき亡き父が乗っていたのと同じ、ホンダ・プレリュードの残骸を見て胸を突き動かされる。思い出したのだ。自動車ではなく、クルマを。

「それは身体を運ぶと同時に、魂をも駆り立て、駆動したのだ」と。《私》は技術者の友の力を借り、理想のクルマを設計し始める。

第2部の舞台は一転して人類が消え去った遠未来、翼を持つ異人《翼人》の世界だ。滅亡した人類の文化を研究する翼人キリアは、研究のため生み出された人造人間が、発掘された設計図に強く反応したことを見て、《クルマ》なる機械を再現しようとする。

SFは苦手という人も多いだろう。でも、SFという仕掛けは、クルマを別の角度から見るための方便なのだ。そこで描かれるのは、初めてハンドルを握ったとき、どこにでも行ける気がした高揚感、クルマを相棒のように感じたときの一体感……クルマを愛する人なら説明するまでもなく知る昂ぶる気持ちだ。クルマでつながれた、クルマのない2つの世界を旅する中で、僕たちはあの想いがどこから来るのか、そしてまた、当たり前のように乗っているクルマがどれだけの技術の積み重ねで造られていたかを知ることになる。

クルマは便利だ。だが、それは便利のために生まれたのではない。もっと遠くに、もっと速く、もっと自由にと願う心が、魂の解放を望む意志が、形となったものなのだ。肉体を捨て、意識を仮想空間に移すことで不死をも実現する未来で、魂の自由はそこにはないと拒絶した《私》が、造られることはないかも知れない理想のクルマの設計に最後の生を燃やす第1部。飛翔という最高の自由を持ちながら、自らそれを捨てた翼人キリアが、翼を持たない人間の心に寄り添うことで《クルマ》の持つ意味、そして飛翔をも超えるスピードを知る第2部。クルマを魅力的に描いた小説は多々あるだろうが、クルマとは何なのか、なぜクルマに乗るのか、その本質にこれほど迫った物語を僕は知らない。

過ぎ去った18歳の夏を見つける旅

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●『ロッキン・ホース・バレリーナ』
大槻ケンヂ
角川文庫 ¥629(税別)

「十八歳で夏でバカだった」

この一文だけでもう十分なのだ。青春ロック小説『ロッキン・ホース・バレリーナ』は、バンドやってた人ならより楽しめるだろうけど、特段音楽好きでもなくて、輝かしい夏の思い出なんかなくて、でも18歳だったり夏だったりバカだったりしたことのある人間(→俺)にとっても、ホコリまみれになってた衝動を呼び覚まさせる物語だった。

パンクロックバンド「野原」の耕助は、仲間たちとメジャーデビューを懸けた初のツアーに出る。おんぼろハイエースで各地のライブハウスを巡り、向かうは博多。だが、途中で奇妙なゴスロリ娘・町子を同行させるはめになり……。自殺した恋人を忘れられずにいる耕助、ヘビーな過去からゴスロリという鎧で心を守る町子、挫折した過去を若い耕助たちに重ねる中年マネージャー・得山。傷を抱えた三人を軸に、ハイエース《野原号》はひた走る。

疾走感あふれるハプニングとトラブルとバカ騒ぎの旅は、まさに夏そのもの。特に大槻ケンヂ氏が自らの体験を込めたであろうライブ場面は、演奏者の視点から楽屋の様子やステージ上の光景が描写され、読むだけで心が昂ぶってくる。

そして知るのだ。このひと夏の旅が、僕たちが生きていくこの旅と同じであることを。バカやったり失敗したり信じたり裏切られたり、また信じたり傷ついたり好きになったりしながら旅は続く。耕助や町子が葛藤を乗り越えていく青春模様もいいのだが、かつて18歳だった人間には、人生負け続けのマネージャー・得山の旅にこそ共感を覚えるだろう。

20年前、音楽に夢を見ていた彼は大人たちの食い物にされ、苦い現実を知る。借金を抱え、「音楽は目的のための手段だ」と口では言いながら、勝ち組に回るには耕助たちを使い捨てるしかないと——自分がそうされたように——と知りながら、非情に徹することができない。結局彼は夢と現実の折り合いを付けられないダメ人間なのだが、そのダメさゆえに彼は同じ轍を踏もうとしていた耕助たちを救い出す。もう一度音楽の神様に出会うことができる。

「神様にロックンロールっていうやっかいで大事なものを与えられちまったんだから、頑張るしかないじゃない」 彼が泥の中で見つけた本心は、青臭くて、ダメダメで、やっぱり18歳だった。この旅は彼にとって、過去に向き合い、新たな夏を見つける旅でもあったのだ。

本を閉じたとき、きっと自分にとって大事な/大事だった何かを思い出すだろう。そこには今も18歳で夏でバカな自分がいるはずなんだ。

女と「車」と「クルマトイウモノ」

アヘッド 雨の日

text:若林葉子

実はこの本は嶋田智之さんが候補に挙げてくれたうちの一冊だった。「女性なのに、えらいマニアックなクルマが出てくるんだよね」という一言に興味が湧いて、横取りしてしまった。それ以外には何の前情報も仕入れず読み進めるうちすぐに、これはいろいろなクルマを登場させることが前提の小説なのだと分かった。—こういううがった読み方は一種の職業病だが—それにしても、やはりうまい。

主人公のゆうこが会いたくもない昔の男(「かまきり」)の誘いについ乗ってしまうのは、ヤツがTVRのタスカンに乗ってやってくるからだ。それだけで、もう充分に説得力がある。あんなに珍しい、そして何だかちょっと得体の知れないクルマで迎えに来ると言われたら、私もやっぱり断れないだろう。その後も「かまきり」はとっかえひっかえ変わったクルマでやって来る。

ジャガー・XJ8、クライスラー・クロスファイア、サーブ9-3カブリオレ、アストンマーティン・ヴァンキッシュ……。最後にはゆうこが欲しがっていて、けれどお金がないから買えずにいたアルファGTに乗ってやって来る。こんな関係が長く続くわけはないから、二人のあっけない別れには驚かない。私が心底怖いと思うのは、ゆうこが自分のアルファ145までも手放してしまう結末なのだ。

『NAVI』に連載されたこの小説、作者の絲山秋子さんは執筆にあたり全てのクルマに実際に試乗したそうである。そして多分、想像するに、本当に疲れてしまったのだろうと思う。あんなにクルマ好きだったゆうこなのに、最後には「車」が「クルマトイウモノ」に変わってしまう。長い間憧れたアルファGTですら、ただのモノ以上にも以下にも思えなくなってしまうのだ。

『残ったのは甚だしい疲労感だけだった』

その感覚、私にもある。どんな高級車も、どんなスポーツカーも、どんな最新機能も、また男たちの得意げなクルマ談義も、「だから何なのだ」と本当にどうでもよくなることがある。ときどき襲って来るその疲労感の正体が何なのか、私にはまだよく分からない。これは女性に特有の感覚なのだろうか。分かっているのは、クルマが好きとか嫌いとかいうこととは全く別の話だということだけ。それだけに、ゆうこと「かまきり」の関係と同じように、前にも進めず後ろにも戻れなくなって、145が朽ちて行く結末をただの物語、とやり過ごすことができない。

「車」と「クルマトイウモノ」クルマ好きの男性たちはこの小説をどう読むのだろうか。

デロリアンよりオデッセイ

アヘッド 雨の日

この小説を最初に読んだのは、まだ私がペーパードライバーの頃だった。クルマになんか何の興味もなかったのに、『流星ワゴン』を読んで、いっぺんに「オデッセイ」が好きになった。

タイムマシンに乗って過去へと旅し、自分の現在を変えようとする物語——と言えば、何と言っても『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だ。

『流星ワゴン』のオデッセイは、言うなればあのデロリアンのようなもの。主人公を過去の大事な場面へと運んでくれるタイムマシンだ。

仕事も家族も何もかもが壊れてしまった38歳の主人公、一雄。もう死んでもいい、そんなふうに疲れきった一雄の前に、すーっと一台のワゴン車が停まる。橋本さん親子の乗るオデッセイだ。8歳の健太君に誘われて一雄が乗り込み、過去への旅が始まる。

これは過去を悔い、再生を願う3組の父と息子の物語。一雄とその父、チュウさん。一雄とその息子、広樹。そして橋本さんと健太君。父は息子を想い、しかし息子の気持ちを理解しておらず、息子も父の愛情に気づけず心は離れていく。

家族とは本当に面倒だ。どの家に生まれて来るか、こればかりは誰も選べない。家族こそ宿命。親との関係がその人の人生を大きく左右する。逃れたいと思う一方で求め、求める一方で反発する。自分はもっといい親になる。そう決意しても、親になれば子に背かれる。誰も家族という宿命からは逃れられないのだ。そして私たちは良きにつけ悪しきにつけ、家族という関係の中から何事かを学び、成長する。

『流星ワゴン』を読むと、特別なことなど何も起こらない当たり前の日々は決して自明のものでないと思い知らされる。誰もがチュウさんになり、一雄になり、橋本さんになりうる。3人とも決していい加減に生きていたわけではないのだ。どうすれば良かったのか、それすら明確に答えられる人はいないだろう。

一雄は、人生の分かれ目となったその日その場所で、その時とは違った行動をとってみるが、この物語では結局、現実は何一つ変わらない。ただ一雄の気持ちに変化が訪れるだけ。大事なのは過去と向き合い、自分の過ちを受け入れること。過去は変わらないけれど、不確かな未来に希望をつなぐことなのだ。
 
この物語には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような明るい未来はやって来ないが、でもだからこそ、親であり、子であるあなたに読んで欲しいと思う。

私たちのささやかな人生には、デロリアンよりオデッセイが誠にふさわしい。

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。

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