モータースポーツの おもしろさを伝えたい

森脇基恭 「世界基準になれば日本はおもしろくなる」

アヘッド おもしろさを伝えたい

●1946年東京都生まれ。'69年に本田技術研究所に入社。四輪車の開発に携わる。'73年に退社後、渡英。GRD社で、日本人初のチーフデザイナーとして数多くのレーシングマシンを設計。'76‌・‌'77年の日本のF1開催で手腕を発揮。'78年にノバ・エンジニアリングの取締役に就任。フジテレビF1中継の解説者でもある。

text:世良耕太

森脇基恭さんはフジテレビのF1中継の解説を長年務めている。理路整然とした解説になじみのある方も多いことだろう。その森脇さんが「2014年はF1をはじめとするモータースポーツの転機になる」と力説する。何年かして振り返ったときに、「あの年から変わったんだ」と思い起こすような。

だから、見て損はないし、見なければ損なのである。その理由に触れる前に、森脇さんのF1との関わりを振り返っておこう。

「僕が子供のときは、みんながみんな、動くものが好きだった。自動車が通ると表に出て、深呼吸してた時代。石油の中にはいいニオイのする成分があり、それが排ガスに混ざって出てきた。だから本当にいいニオイがしたんです。自動車や船や飛行機に興味を持った子供の頃のまま、成蹊大学の工学部に行きました」

三菱財閥4代目総帥・岩崎小弥太が創設した私塾を母体とした大学だったこともあり、就職先は三菱系の企業が多かったという。そのうちのひとつ、三菱重工が飛行機を作っていたので、森脇さんは実習に行った。ところが「ちょっと違う」と感じ、実習終了後、役員面接の席で、「ホンダかボーイングに行こうと思います」と言ってしまうのである。

「結局ホンダに入るのですが、なぜホンダかというと、本田宗一郎が『飛行機を創るぞ』と言ったんですね。それにだまされて…」

森脇さんは'69年に本田技術研究所に入社する。同期には、後にホンダ(本田技研工業)の6代目社長に就任する福井威夫や第2期F1参戦活動でプロジェクトリーダーを務めた後藤 治がいた。

「飛行機でもF1でもいいと思っていました。僕のなかでは、自動車という乗り物の究極の姿がF1だった。公道を走る自動車を作るにはいろんな妥協が必要ですが、F1の場合、妥協はありえない。飛行機も同じで、『仕方ないよね』という部分があったら飛び上がらない」

乗り物の究極に関わりたかったのだ。ホンダの第1期F1参戦活動は'68年で終わっていた。「必ずまたやる」という話を信じつつ、森脇さんは「ホンダ1300」や「1300クーペ」、初代「シビック」などのサスペンション設計などに携わる。ところが一向にF1を再開する気配がない。

「ホンダに残る選択肢もあったのですが、一度決めたことだから頑張ろう」と思い、ホンダを出ることにした。向かった先はイギリス。ホンダF1の監督を務めた中村良夫に紹介状を書いてもらう図太さだった。「辞めるんだけど、あなた向こうで顔が広いんだから招待状書いて」とお願いしたという。

「チーム・サーティース」と「ローラ」、「GRD」の3つが候補だったが、クルマ作りとチーム運営の両方を手がける「GRD」に入ることにした。'73年のことだ。「GRD」(グループ・レーシング・デベロップメント)は「チーム・ロータス」から分離独立した会社で、F2やF3を中心にロータスが行うワークス活動以外のサポートを行っていた。今年のF1開幕戦、オーストラリアGPの表彰台に、'80年のF1チャンピオンのアラン・ジョーンズがインタビュアーとして上がった。地元の英雄である。「GRDにいた頃に僕が作ったF3で彼はチャンピオンを獲ってくれたんですよ」と、森脇さんは懐かしそうだ。

イギリスに来た当初は、差別を受けることもあったが、森脇さん流に言うと自分勝手に生きていたので疎外感は全く感じなかったという。

「なかなか周囲に認められないと嘆く若い子たちによく言うんです。日本人で日本にいれば、認めるか認めないかの針は真上のところにあるんだと。でも、日本人がヨーロッパにいたら、針は真下のところにあって、認めていないことが前提。さんざん役に立つ仕事をして『こいつは使えそうだ』となり、ようやく針は上に向かって動き出す。そこまで持っていくのは大変。だから、すぐにあきらめちゃダメなんだと」

'76年になり、ホンダではなかったが、「F1を設計してほしい」という依頼が日本からあり、森脇さんは帰国する。だが、スポンサーが降りてしまった影響で、その話は立ち消えになってしまった。そこに声を掛けてきたのが、富士スピードウェイで行われた'76年の「F1イン・ジャパン」を主催したスポーツニッポン新聞社(スポニチ)だった。森脇さんは事務局次長の立場で、現在もF1世界選手権の商業権を一手に握るバーニー・エクレストンと交渉した。主催者がJAFに移った'77年は、JAFから全権委任状を受け取ってイギリスに渡り、やはりエクレストン氏と交渉している。今年とは別の意味で、'76年、'77年はF1にとっても日本のモータースポーツにとっても転機だったと、森脇さんは振り返る。

「'76年、'77年の日本での開催があったから、世界戦略が進む今のF1があると思っています。'76年の日本でのF1は、ヨーロッパ語圏以外で行う初めてのF1開催でした。バーニーは当時すでに、ヨーロッパに限界を感じていた。この先、経済的に伸びる国はどこなんだと見渡したときに、日本があった。彼と交渉しているときにこちらが強気に出られたのは、向こうがやりたがっているのを感じたからなんです」

'77年の日本GPで不幸な事故が起きたため、行われるはずだった'78年の日本GPは幻に終わった。F1が次に日本に上陸するのは'87年まで待たなければならないが、森脇さんは「遅すぎた」と言う。

「富士でも鈴鹿でもよかった。もっと早く日本が手を挙げていたら、事情は違っていたかなと思っています。日本という国は、ほったらかしにしておくと、自分たちだけの世界に入り込んでしまう。自動車メーカーってすごく自分勝手だから、自分たちの勝ち負けしか見えてない。自分たちがレースをやっている意義だとか文化であるだとか、そこに携わるドライバーを評価して表に出すとか、そういうことをしないからダメなんです」手厳しい意見だ。

「もし'80年代の初頭にF1を開催していれば、状況は変わっていたと思います。日本独特の態勢が固まる前の混沌とした状況の中で、F1を通じてヨーロッパのモータースポーツを学ぶことができたからです。地理的な面があるから仕方ないという見方ができるかもしれませんが、現代のような、世界では通じないガラパゴス現象をなくす効果があったと思っています。もっとグローバル化が進んでいれば、ドライバーはヨーロッパと同じ評価軸で評価されるようになっていたはずです」

'77年のF1日本GPは、現代のF1では当たり前となっている光景を生み出すきっかけとなった。優勝したのはジェームス・ハント(マクラーレン)だったが、ハントは飛行機に乗り遅れるからと、表彰式に出席せずにサーキットを後にした。主催者側から全権を委任されていた森脇さんはレース後、エクレストンに対し猛烈に抗議した。「あなたの管理が悪いからハントは帰ってしまった」のだと。F1のスポーティングレギュレーションに「1位、2位、3位のドライバーと優勝チームの代表者は、表彰式に出席しなければならない」という一文が加わったのはこの一件がきっかけだった。

森脇さんは'78年に「ノバ・エンジニアリング」に参加し、レーシングカーコンストラクター兼チームの首脳陣として、マシンの設計やチーム運営に携わった。長谷見昌弘や星野一義といった日本のトップドライバーと一緒にレースをした一方、H|H・フレンツェンやP・デ・ラ・ロサといった、後にF1で活躍するドライバーを輩出している。

「モータースポーツのいいところは、人間が自分の持っているすべてを出して戦っても、簡単にいかないところです。機械を設計する人がいて、作る人がいる。それを操る人もいて、チームワークが必要。どの役割を担う人もベストを尽くさない限り、結果は出ない。でも、ベストを尽くせたとしても結果が出るとは限らない。こんな理不尽なスポーツはないのです。だから勝ったときの感慨は格別なんです」

これは、モータースポーツに身を置く者としての実感だろう。

「レースをやっていて勝てないときは、あらゆることを考えて手を打ちます。それをやって今度は勝てると思っていても勝てない。ドライバーも同じだと思います。さんざん自分のミスを指摘されてボロクソに言われて人がいないところで涙を流していることでしょう。で、次の試合に臨む。また失敗する。その繰り返しなんですよレースって」

勝利至上主義だと、〝人間〟を見失ってしまう。今年のF1は技術フォーマットが大きく変わり、量産車の世界でブームとなっている過給ダウンサイジングエンジンに、2種類のハイブリッドシステムを組み合わせた複雑かつ高度なシステムを搭載することになった。そこには役割の異なるさまざまな人が携わり、みな持てるものを駆使して、いつになくむき出しになってベストを尽くしている。それが、今年から始まった流れなのだ。

「金メダルでなければダメだと思っていたところに、それだけではないと教えてくれたのは、ソチオリンピックのフィギュアスケートで素晴らしい演技を見せてくれた浅田真央さんです。1位になるために努力する。それは当たり前のこと。でも、そうじゃない価値もスポーツにはあるんだということを彼女は示してくれました。モータースポーツもそうなればと思いました」

モータースポーツはモーター、すなわち動力を載せたクルマで行うスポーツだが、クルマが勝手に動いて優劣を競うわけではない。「それを誰が作り、操るのかというと全て、「人間」なのである。そこに着目してみると、モータースポーツの本質的な魅力が見えてくるはずだ。

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