45歳からの原点回帰

夢の原点を叶える 佐藤渉

アヘッド 45歳からの

text:伊丹孝裕 photo:渕本智信

50歳が見えてくる年齢になっても消せない夢がある。〝いずれ〟も〝そのうち〟も待っているだけではやって来ない。本当にやりたいことや、持っていたはずの夢を完全に忘れてしまう前に、今こそ動き出そう。人生とは自分に与えられた時間なのだから。やってしまった後悔は取り戻せても、やらなかった後悔は取り戻せない。

クルマのことが大好きだと分かりきっている相手に、いささか直球が過ぎると思われたが、前置きなしに「クルマに興味を持ったのはいつでしたか?」と切り出してみた。おそらく幼稚園や小学生時代のエピソードから始まることを予想して。

その相手が佐藤 渉さんだ。現在ルノー・ジャポンの広報グループに所属し、会社設立当社から携わってきた最古参のメンバーのひとりである。

「立場上マズイと思うんですが、免許すら要らないと思っていたくらい興味の対象外でした。大学生の時に、免許くらい持っていないと就職にも困る、と親に諭されて渋々教習所に通ったものの自転車で十分満足でした。多少自覚していますが、どうも周りの人とは時間の感覚がズレているらしく、ブームや通過すべきことがいつも人より5年か10年くらい遅れて来るんです」と申し訳なさそうに笑う。

実際、自転車に関してもそうで、友人達は当然のように小学生で乗り回していたものの、佐藤さんが初めてそれを手に入れたのは高校生になってからのこと。その頃、友人達の興味はとっくにバイクへと移っていたにもかかわらずだ。

ただし、今回のテーマにもつながる妙な入れ込み具合いが、ここで少し顔を覗かせる。というのも自転車に乗り始めた途端、いきなり北海道へのツーリングを敢行し、やがて大学に進み、みんながクルマに乗り始めた頃にようやくバイクに目がいくようになったかと思えば、今度はツーリングではなく、サーキットでバイクレースのオフィシャルのアルバイトを始めるなど、一度興味を持った後の振り幅がちょっと異質な人なのだ。そうした独特の間合いは、いざ就職が迫ってきた時も如何なく発揮された。

「何をしたいか考えているうちに就職よりもレースがしたくなったんですね」と、サラリと言う。

年齢的なことはさておいて、例えばそこから一念発起して本気でレーシングドライバーを目指した、というなら話はまだストレートで分かりやすい。佐藤さんがやはり独特なのは、「だからと言って、プロになりたかったわけじゃないんです」と付け加えたことだ。

かいつまんで書くと、「クルマが好きというよりもモータースポーツが好き。だから、自分もレーサーのように上手く操れるようになりたい。そのために正しいドライビングを学びたい。それにはちゃんと指導を受けられる環境が必要だ。しかし日本ではなかなか難しい。だったら海外へ行こう」と、自分の中でそういう結論に至ったらしい。

そして、本当に就職活動を辞め、大学卒業後はアルバイトしながら貯金。並行してモータースポーツにまつわる海外の情報を集め、いくつかの候補の中から、イギリスの名門ジム・ラッセル・レーシングスクールのカナダ校の門を叩くことに決めたという。ちなみに本国イギリスのジム・ラッセル・レーシングスクールの卒業生には、アイルトン・セナやジェンソン・バトンといったF1ドライバーも名を連ねている。

「ここはスクールの中で働きながらプログラムを受けられるんです。だから走っていないときも、常にクルマとの関わりを持っていられる。住む場所も光熱費もただなんです。そんな環境の中で、1年くらい居たでしょうか。使われるクルマはいわゆるフォーミュラカーです。スクール内は基本的に英語でしたが、場所がケベックだったため外に出ると公用語はフランス語。どちらにしてもまともに話せないので最初は苦労しましたね。もちろん、ドライビングに関してはもっと大変で、ただ普通に加速するだけでも何度もスピンする始末。それでもあの刺激や爽快感は他では代えの効かない世界でした」

この時、佐藤さんは24歳。言わば、このカナダでの1年こそが、今の佐藤さんに至る原点になったと言えるだろう。

アヘッド 45歳からの

●佐藤 渉
1967年生まれの47歳。ルノー・ジャポン広報最古参のメンバー。控えめな性格ながら、クルマへの情熱は人一倍。各方面から強い信頼を得ている。

「実家には『ちょっと運転の勉強をしてくる』と言って出て行ったんですけど、本当にその通りになりました。スクールの中には生まれついてのドライバーみたいな連中がウヨウヨいて、そういうのを目の当たりにするとちょっとかなわないと。つまりそれは、血筋だったり、経済環境だったりも含めてのことです。最初からステージが違う感じでしたね。プロへの憧れはどこかにありましたが、わりと早い段階で、環境も含めた自分の能力を知れたのは良かったかもしれません」


とは言え、クルマへの情熱は以前よりも確実に強いものになっていた。「日本に戻ってきてからは家業を手伝いながらも、せっかくの経験を中途半端に持て余していたというか、なんとなく悶々としていたのは事実です。ある時ふいにこのままでは駄目だと、どうにも我慢ができなくなって、実家のあった仙台から東京に出てきたところ、後にルノー・ジャポンの前身にもなる会社と縁ができ、その手伝いをするようになったことが現在の仕事に就くきっかけでした」

その過程で、佐藤さんはドライビングレッスンの講師も何度か務めている。クルマは、操作を少し誤るだけでいとも簡単にクラッシュし、時には死に至ることもある。それは緩慢な操作を許さないフォーミュラの経験からくるもので、乗用車の場合は単にクルマがドライバーのミスを許容してくれているだけ。

そのことを一般ドライバーに伝えることに意義を見出していた。その一方でルノーの仕事も忙しくなり、悩んだ末、後者を選択する。そして正式に設立されたルノー・ジャポンに入社。働き盛りの30代を過ごす中で、佐藤さんの中にあったフォーミュラへの想いは薄らいでいったかのようにも思えた。

アヘッド 45歳からの

「40代に差し掛かった頃、仕事やプライベートでたまたまサーキットに顔を出す機会が増えたんです。体はウズウズしていましたが、クルマもないので現実的に自分で走るのは難しい。ただその一方で『いつかそういう日が来てもいいように準備だけはしておこう』と、なぜかそんな風にも思っていました」

それからというもの、佐藤さんは少しずつ行動を開始する。まずはライセンスを取り、次にレーシングスーツを買い、次にシューズを揃え、そしてヘルメット…とここまでで数年を掛けてクルマ以外の一切を揃えていったのだ。

となれば、あとはクルマを手に入れるタイミングやふんぎりである。最後のひと押しになったのは、そばで長い間準備をする様を見せつけられてきた奥さんの「一体、いつになったら買うの?」という発破を掛けるひと言だった。自身の気持ちや物理的な条件、家族の理解、仕事との兼ね合い…そんな諸々がいい流れとして重なり、佐藤さんは「今を逃したら一生乗れない」という思いに駆られ、本国のルノー・スポールにこう打診する。「フォーミュラ・ルノーを探している」と。

もちろん、選択肢は他にもあった。通常のラインアップにもRS(=ルノー・スポール)の名を冠するホットバージョンがあったし、一時はクリオV6やメガーヌR 26.Rといったスペシャルモデルも検討した。しかし、やはり佐藤さんはフォーミュラならではのソリッドな感覚が忘れられなかった。

「純粋なレーシングマシンですから、操作には高い精度が要求されます。だからこそ一瞬でも、たったひとつのコーナーでも上手くこなせた時の快楽は他に代えがたいものがあるのです。その時に得られるギリギリ感や『次はもっと上手く』という欲求こそが私の中にあるクルマの原点。妥協したら絶対につまらなくなる。そんな一心でした」

やがて、ヨーロッパの選手権を走っていた状態のいい個体が何台か見つかったという知らせが送られてきた。手に入れることに迷いはない。あとは価格や程度とのバランスを踏まえて、その中から1台を選び、日本へ運ぶ手続きを済ませた。ちょうど1年程前のことである。

ところで、一般的にはフォーミュラカーを所有し、それを走らせることなどあまり実感が湧かないだろう。特にコストがそうだ。そのあたりのことを、佐藤さんは実に忌憚なく答えてくれた。

「フォーミュラカーは決して遠い存在ではありません。私の場合、車両の購入価格は3万ユーロ(約350万円強)程でしたし、保管や運搬、走行に関しては、富士スピードウェイ近くにガレージを構えるノバエンジニアリングさんにお願いしています。もちろん1回あたりの走行代は少々掛かりますが、走らせるのはせいぜい2~3か月に一度。都内でクルマを所有し、日々ガソリン代や駐車場代、保険代等を払うことを思えば年間の維持費はそれほど大差なく、極めて現実的と言えるでしょう。スーパーカーと呼ばれるような車両を購入するよりも断然安く、それでいて刺激的な時間が過ごせると思うのです」

事実、佐藤さんは「メーカーの広報としては大変申し上げづらいのですが…」と前置きした上で、現在乗用車は所有せず、その分の維持費をフォーミュラ・ルノーとの時間に費やしているのだという。

ルノーは、カングーやキャプチャーといった日常に密着したモデルで知られる一方、その対極とも呼べるフォーミュラカーを世界で最も生産しているメーカーでもある。F1でのシェア(全11チーム中4チームがルノーエンジンを搭載)からも分かる通り、むしろこちらがルノーの真骨頂と言っていいのかもしれない。言わば、その根幹を支えているフォーミュラ・ルノーを操り、その魅力に浸っている佐藤さんは、最も自社製品への愛に溢れた広報マンと呼ばれるべきだろう。

最初のフォーミュラ体験から20年以上の時が過ぎたが、佐藤さんは再び原点へと戻ったのだ。あの頃のときめきを忘れない限り、いつかそこへ還り、時間を巻き戻すことができる。佐藤さんは静かにそのことを教えてくれている。

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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。

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