レゾンデートルある者の存在する理由

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僕の中には浮谷東次郎がいる 加藤彰彬

text:伊丹孝裕

すでに満身創痍だった。

ニュルブルクリンク24時間耐久レースの折り返しが近づいてきた頃、コースを走るマツダ・MX-5(日本名ロードスター)の限界はいつ訪れても不思議ではなく、それでも失った順位を取り戻すべく加藤彰彬は暗闇の中でアクセルを踏み続けた。

しかし、ヘッドライトで照らされたその暗闇が突如白煙に包まれ、視界が完全に遮られた。加藤はたまらずコースアウト。ほとんどなす術もなくガードレールに激突し、その反動で今度はコース反対側のタイヤバリアまで跳ね返った後、ようやくMX-5は動きを止めた。

白煙の正体はコースサイドで観客が楽しんでいたキャンプファイヤーの煙だ。それが霧のように立ち込めるという不運極まりないものだが、しかしニュルブルクリンクでは起こり得るレースのワンシーンだという。

いずれにしろ、そのダメージを見ればレース続行が不可能なのは明らかだった。そのステアリングを託された4名のドライバー全員が、それまでのスティントでもなんらかの接触を経験し、ボディやホイール、サスペンションを破損。その度にダメージを修復しながら走ってきたのだ。ステファン・ヨハンソン、オーエン・ミルデンホール、ウルフガング・カウフマン、そして加藤。いずれ誰かがその順番を引き当てていたのかもしれない。しかし、加藤の心に浮かんだのは「自分がレースを終わらせてしまった」という自責の思いだった。

事前テストや予選からチームのベストラップを刻み続け、ロードスターの誕生25周年を記念した今回のプロジェクトにおいて、欠かせないメンバーになっていた加藤。母体となったイギリスのレーシングチーム〝JOTA〟(ジョタ)とマツダからの信頼も厚く、いかに真摯にレースに挑み、チームを牽引してきたかを知っているからこそ、それを責める者などいなかった。「加藤が避けられなかったクラッシュなら仕方がない」 そう誰もが納得し、加藤もやがて「やれるだけのことはやった」と結果を受け入れたのである。

2014年6月22日午前3時、チームはリタイヤを決め、この年の挑戦を終えた。

加藤彰彬38歳。マツダ・ロードスターのチューニングやシミュレーターによるドライビングレッスンで知られるTCRジャパンを主宰する一方、サーキットでも活躍するプロのレーシングドライバーである。

しかし、そのドライバー人生は順風さや華やかさとは程遠く、時代やお金に翻弄され、その中であがき続けた末に今のポジションに辿り着いた、というのが正しい。

そんな加藤がレースに興味を持つようになったのは浮谷東次郎(1942年〜1965年)の存在だ。23歳で夭逝したその天才ドライバーの生涯を綴った『燃えて走れ』(グランドツーリング社)を偶然手にした加藤は、その人生に衝撃を受けた。レースシーンの瑞々しい描写もさることながら、浮谷東次郎の生き様そのものがスピード感に溢れていたからだ。

「それを読んでどうしてもレースがやりたくなりました。でも本当に知りたかったのは浮谷東次郎がなぜあれほど夢中になり、その先になにを目指していたのかってこと。彼と同じようにレースをすれば、それが分かるんじゃないか。そんな風に思ったんです」と当時を振り返る。加藤がまだ中学生の時のことだ。

著書の中の浮谷東次郎は鮮烈極まりない。特にドイツ製のバイク、クライドラーで達成した千葉と大阪の往復1500㎞ツーリングのくだりなどは、その時の加藤の年齢とも重なるため、強い印象を残したことだろう。それだけでなく、浮谷東次郎が体験した渡米やその先々でのバイクレース、帰国後に交わしたトヨタとの契約、イギリスで約束されたF3への挑戦、様々な女性との出会い……。その人生にはレーサーなら、あるいは男なら誰もが抱く夢のほとんどすべてが詰まっていたと言ってもいい。

高校に入った加藤はアルバイトを始め、ほどなく中古のカートを手に入れた。そして高校2年の時から本格的にレースの世界へと足を踏み入れたのだ。

浮谷東次郎が見た景色への第一歩。それがまったくの夢物語に思えないほど、加藤には才能があった。シャシーもエンジンもかなりの型遅れではあったが目の前のレースをひとつずつクリアしていき、数年後には全日本選手権に出られるまでになっていたからだ。当時のレースは、入門カテゴリーなら軽く100台以上のエントリーを集めるほど大盛況だったにもかかわらず、軽々とその中から抜け出してみせ、全日本昇格後もデビュー戦でいきなりトップを走るなど、それは順調なレース人生だった。

しかし、この世界に足を踏み入れた者なら遅かれ早かれ直面する高く、分厚い壁の存在を知ることになる。それが資金、つまりお金の有る無しだ。カテゴリーが上がれば上がるほどそれは天井知らずで、持てる者と持たざる者を才能もろとも振るいに掛けていく。加藤も例外ではなく、全日本を転戦し始めると途端に借金がかさみ、気がつけばどうにもならなくなっていたのだ。

「お金のことしか頭になかった生活の中で、そもそもなぜレースを始めたのかさえ思い出せなくなっていました。だったらその原点とも言える浮谷東次郎に会いに行こう。ある日、ふとそんなことを思いついたんです」

もちろん、浮谷東次郎はこの世にいない。しかし、その家族に会えれば何かが分かるのではないか。そう考えた加藤は、なんの当てもないまま浮谷東次郎が生まれ育った千葉県市川市を目指し、電話帳を片手にそれらしき家へと片っ端から電話を掛けていったという。

そうやって何軒目かで行き着いたのが浮谷東次郎の実の姉、朝江さんだった。朝江さんは何者かもわからない加藤の話を電話で終わらせなかったばかりか、家に招くこともためらわず、ひとしきり加藤の話を聞いてくれた。そして「東次郎はサーキットで死んだから、がんばってとは言えないけれど……」と前置きした上で、様々な思い出話を聞かせてくれたという。以来、加藤は毎週のように朝江さんの元に訪れるようになり、彼女もまた加藤をかわいがるようになっていった。

加藤が聞いた朝江さんの言葉の中で、最も印象的であり、今もよりどころにしている教えがある。それが「人には自分の思うようにならない時期が必ずある。そんな時はもがいたりしないで、それを受け入れなさい。あなたの存在や力が、本当に必要とされる時には再びいい流れが巡ってくるから」という心の持ち様だった。

実際、加藤は紆余曲折する自分の人生の中で、時に流れを掴み、あらがえない時は引き、人生の折々でその言葉を指針にしながら生きてきたと言えるだろう。

例えば'96年、全日本カート3年目のシーズンを前に引退か否かの瀬戸際に立たされた加藤だったが、そのきらめきを周囲が放って置かず、シャシーやタイヤのサポートを引き寄せ、優勝も達成。全日本ランキング4位にまで登りつめたのだ。その結果ヨーロッパ遠征や世界選手権への誘いも舞い込んだが一転、むしろその躍進が加藤の進退を追い詰めていった。
「ヨーロッパに行くということはその間、借金が返せないということ意味し、そもそも飛行機代すら捻出できない。それをなんとかする手立てもなく、かと言って国内に留まってカートを続けるのも限界。まして4輪レースへステップアップする道筋も見えない。八方塞がりになり自分の器がどれくらいなのかが分かった瞬間でもありました」

裏を返せば、飛行機代といくばくかの生活費が用意できれば加藤の人生はまったく違っていたかもしれない。しかし、それができないということは自分の存在や力が必要とされていないということだ。そう考え、自身の身の丈を受け入れたのだ。

「もしもあの時…そんな風に考えないわけではありませんが、それがなかったから今の自分があるとも思っています。朝江さんの言う〝受け入れる〟というのはあきらめることではなくて、これ以上ないっていうほど懸命に取り組んだなら結果がどうあれ納得できる。そういうプロセスの話だと思うんです。その意味では自分なりの精一杯でした」

それから加藤は働きに働いた。そして借金を返しながら、独立も果たしたのである。

そんな加藤がレースに戻ってきたのは'05年のことだ。本誌が参戦したロードスターのメディア対抗4時間耐久レースのドライバーとして、ひょんな縁で抜擢されたことがきっかけになった。それと前後して人にドライビングを教える機会も増え、いつしか加藤の生活は再びサーキットを軸に回り出すようになっていた。最後にカートのレースに出てから8年程が経っていたが、〝いい流れ〟が来るまでにそれだけの時間が必要だったということだろう。

加藤が人にドライビングを教えるのは、モータースポーツの入り口に立とうとしているドライバーに命を落としてほしくないからだ。

知識や経験不足でアクシデントに巻き込まれるなら、それを教えることで回避してもらいたい。そんな思いからである。加藤自身、多くの友人や知人をサーキットで亡くしたということもあるが、浮谷東次郎も自分が見て、体験したことをその言葉や行動、文章で伝えようと懸命だったこととどこかで繋がっているのではないだろうか。そんな加藤を、浮谷東次郎を直接知るとある人物が「君の今の活動は、東次郎の意志を継いでいるのと同じことだ」と評したという。それを機に、加藤は自分の立場を少なからず自覚するようになり、現在も様々なレッスンを通し、モータースポーツを楽しむ術を伝えているのだ。

「僕からレースを取ったらなにも残りませんが、たとえ僕が走らなくともこの技術や知識が誰かに伝わり、モータースポーツに関わる人たちの安全につながるのなら、それこそが僕がこの世界に携わる意義でしょうね」

結局、当時の浮谷東次郎がなにを求めて走っていたのか。その疑問に加藤は答えを見つけていない。

しかし、加藤の人生が浮谷東次郎によって導かれ、大きく変わったことは間違いない。そして今度は加藤がサーキットになにかを求めてやってくる人々を導き、少なからずその人生に影響を与えているのだ。それは目に見えるものともタイムに表れるものとも限らないが、サーキットという特別な空間で継承されているのである。

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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイク

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