女性に寄り添ってきたSUZUKIを知る スズキ歴史館を訪ねて

アヘッド 女性に寄り添ってきた

エントランスから展示室へとあがる階段は、まるでタイムトンネルのようだった。スズキが歩んできた時代の主な出来事がパネルであしらわれ、その時代の流行歌が流れている。浜松にあるスズキ本社には何度も足を運んだことがあったが、その向かい側に建つスズキ歴史館を訪ねるのは今回が初めてだ。

そんなタイムトンネルでふと上を見上げると、美しい織物が天へと舞うようにディスプレイしてある。自動車メーカーの歴史館というと、なんだか女性には難しそうな印象を持ってしまうけれど、ちょっと親しみが湧いてきた。階段をのぼり切った先には、とても古そうな織機がデンと置かれていて、なんと織物がその織機の糸の1本1本とつながっている。スズキのルーツは織機の開発にあるということを、実感させてくれるステキな演出だ。

現在の浜松市が位置する遠州一帯は、もともと織物が盛んな地域だった。とくに遠州では、私たちが「チェック」と呼ぶような格子柄の織物が名産で、それは通常の縞模様の織物よりも、織るのにとてつもない手間と時間がかかるものだったという。幼い頃から、母親や周囲の女性たちが苦労して織物を織る姿を見てきた鈴木道雄は、「母親や、みんなの役に立ちたい」という一心で、織機の開発を決意する。格子柄を織る時にいちばん大変なのは、「杼」(ひ)と呼ばれる道具を用いて横糸を通す作業で、色を変える度にいちいち「杼」を交換しなければならなかった。鈴木道雄は研究と試作を重ね、ついに「杼」を簡単に交換できる仕組みを完成させた。1911年のことである。

鈴木道雄が願った通りに、街の女性たちからは「仕事がとても楽になった」と、感謝の言葉がたくさん届いた。この時に感じた歓びや達成感は、鈴木道雄にとってもかけがえのないものとなったはずだ。その後、生涯に100以上もの発明を残したという鈴木道雄こそが、スズキの創業者であり、のちに自動車製造へと舵を切り、スズキの運命を決定づけることとなった人物だ。そんな鈴木道雄の口癖は、「お客様が欲しがるものは、どんなことをしても応えろ」だった。母親を助けたいと願った青年の心のように、いつでも使う人のことを考えた商品開発をする、という考え方が、スズキのものづくりの原点になっているのだなとしみじみ感じられた。

スズキの原点であり象徴ともいえる「杼箱上下器搭載織機」は、現存するものはなくなっていたが、実用新案の登録書類は保管されていた。その書類をもとに、「杼箱上下器」の原理の裏付けと、博物館に展示するために復元製作した足踏織機が置かれている。また、海外にまで輸出されたという進化版の織機もあった。それは織機と聞いて想像するよりもはるかに大きく、織機上部の構造はなんだか汽車などを連想させるほどに、メカメカしい印象。この歴史館に来るまでは、織機の製造からなぜクルマの製造へと移行したのか、どうもイメージがつながらなかったが、展示を眺めているとそれがなんとなく分かる気がしてくる。ちなみにその織機は数トンもの重さがあり、動かすと音や振動が凄まじいとのこと。そのあたりのイメージも乗り物に通じている。

 一連の織機の展示に続くのは、自転車にエンジンがついたような初期のバイクである。これは'50年代に入り、のちに二代目社長となった鈴木俊三が指揮をとって進めた新たな事業だった。この開発のきっかけとなったのは、ある風の強い日のこと、魚釣りの帰りに自転車で帰宅していた鈴木俊三は、フラフラしてなかなか前に進まない自転車を漕ぎながら思ったのだという。「こんな時に、エンジン付きの自転車があったら楽だろうなぁ」と。

こうして1951年、自転車とバイクの両方の良さを兼ね備えた乗り物として、36㏄のパワーフリー号が完成する。当時の宣伝写真には、嬉しそうにハンドルを握る女性がたくさん写っていた。「大変なことを、少しでも楽にしたい」という鈴木俊三の想いが、男性だけでなく女性の心をグッとつかんだことが伝わってくる。パワーフリー号は、初めてスズキが人々に提供した乗り物だった。今では世界に名だたる二輪車メーカーでもあるスズキの二輪車の原点にも、やっぱり「人」を思いやる心が込められていたのだなと感じられる。

そしてこの頃、二輪車の製造と同時進行で、クルマの開発もスタートしていた。こちらは鈴木道雄が「これからは自動車の時代になる」と、どうしてもやりたかった事業だった。ここからの展示は、ところどころに大掛かりな舞台や、昭和の日本の生活が垣間見えるようなセットが作ってあり、ボタンを押すとその当時の開発エピソードがスクリーンに映し出される。ちょっとしたテーマパーク感覚で見て回れるので、子供たちも楽しそうだ。

スズキ最初のクルマとなったスズライトは、開発を始めた当初は失敗に継ぐ失敗で、研究室はみるみるエンジンシリンダーの山ができたほどだったらしい。社員から、もうやめた方がいいと申し出まであったという。

それでも鈴木道雄はみんなを励まし、自らも休日返上で働いて、ようやく1954年10月、試作車の完成に漕ぎつけた。この時に、当時は至難の業と言われた「箱根登坂テスト」に挑戦し、見事達成。日本での自動車の第一人者だったヤナセの創業者にも試乗してもらい、「これはいいクルマだ。ぜひ作った方がいい」とお墨付きをもらった。

これに勇気づけられた鈴木道雄は、初代スズライトを完成させて翌年10月に発売する。因みにスズライトという名前は、鈴木の「スズ」と、軽いと光という意味の「ライト」を合わせたもの。デザインはちょっと丸みのあるボディで、今みるとレトロ可愛い感じで女性にウケそうだ。室内はとてもシンプルながら、大人がゆったり乗れそうなスペースがある。

エンジンは、排気量359㏄の2気筒、15・1馬力というスペックで、私にはどんな乗り味なのかまったく想像がつかない。けれどスズライトは、鈴木道雄が作りたかった「誰もが手に入れやすい小さくて実用的なクルマ」という想いが、100%注がれているクルマだ。スズライトの成功は日本初の量産型軽自動車の誕生となる。

軽自動車はそうした想いが生み出したものなのだとあらためて実感した。織機や二輪車と同じように、スズキのクルマづくりにも「人」を思いやる心があるのだった。

展示はこのあたりから、昔の自動車雑誌で見たことしかない稀少なモデルや、懐かしい気持ちになる絶版モデルたちが次々に現れる。40代以上の人なら、「これが初めての愛車だったよ」なんて甘酸っぱい再会もありそうだ。当時のカタログを展示したり、テレビCMも流しているので、立ち止まって見入ってしまい、ぜんぜん先に進まない。今回、案内をしてくれた広報部の方の話によると、1台のクルマやバイクの前で思い出話がはじまり、2、3時間盛り上がっていくグループもいるとか。

みんなそれぞれに、いろんなカタチで愛車と過ごした時間があり、それぞれの思い出を心の奥に大切にしまっている。クルマやバイクは工業製品でありながら、人と人との出会いや別れ、新しい街や自然との遭遇。そんな場面をもたらして、人生に深く関わってくるものだからかもしれない。

そんなことを思いながら、私がいちばん興味深く見たのは初代アルトの展示だ。47万円の全国統一価格という破格の値付けで、グレードのランク分けはナシとし、おそらく軽自動車で初めて赤いボディカラーを設定して、大ヒットした初代アルト。その誕生の背景はなんとなく知ってはいたものの、開発エピソードを映像で見るともっともっと奥が深いことがわかる。1970年代後半は、軽自動車の新車販売が伸び悩む一方、中古車販売は新車の4倍と絶好調。現場で調査をすると女性客の多くがグレード分けを嫌う傾向が強かったという。生活のためにクルマが必要だけど、新車を買う余裕はない。でもなるべくいいクルマが欲しい。そんな女性たちが増えていることに気づいたのは、織機の頃に鈴木道雄が母を助けたいと思った気持ちが、スズキのクルマづくりにずっと根付いていたからではないだろうか。

こうして2時間半にもおよぶ、とても充実したスズキ歴史館の見学は終わった。浜松駅へ向かう道すがら、すれ違う軽自動車を眺めていると、今までよりちょっと親しみを感じている自分がいた。みんな、私たちを助けるために生まれてきてくれた味方なんだ。そう思えるようになったからかもしれない。

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●スズキ歴史館の展示は、"歴史”を中心とした3階と、「世界のお客さまへ」と題し、"クルマ作り"に焦点を当てた2階のフロアから成り立っています。2階の展示は4つのゾーンに分かれ、開発ゾーンでは、企画・デザイン・設計・実験といったクルマの開発の過程を紹介。生産ゾーンではクルマの組み立て工程の一部を見ることが出来ます。小型カメラで工場の中を撮影した3Dシアターも臨場感たっぷりで楽しめます。その他、世界中で活躍するスズキ、また地元である遠州を知ってもらうコーナーなど、子どもから大人まで「知りつつ楽しむ」展示で飽きることがありません。家族みんなで見学に行ってみてはいかがでしょうか。

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text:まるも亜希子/Akiko Marumo
エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集者を経て、カーライフジャーナリストとして独立。ファミリーや女性に対するクルマの魅力解説には定評があり、雑誌やWeb、トークショーなど幅広い分野で活躍中。国際ラリーや国内耐久レースなどモータースポーツにも参戦している。

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