カタルシス魂を浄化する旅

アヘッド カタルシス

幼稚園に通っていた頃、あるいは小学校に上がるかどうかという年齢のことだったと思う。母に連れられて知り合いの家を訪ねた。電車と徒歩で1時間もかからない、実家からさほど遠くない場所だったはずだが、それがどこだったかは覚えていない。その家のそばには大きな河川があった。初めて来た場所なのに、その風景はどこかで見たことがあるような気がした。母に聞いてみると、ここは実家のそばを流れている荒川の上流なのだという。

「川をあっちに行けば家に着くよ」

その時の母の言葉がきっかけになった。

私はよく迷子になる子だった。あるとき、幼なじみのミツと遊んでいるうちに縄張りを越えてしまい、気づいたときには土地勘のないところにいて、帰り道がわからないまま日が暮れた。結局は迷子になった場所にある適当な家から電話をしてもらい、母に迎えに来てもらったのだが、迷子になった不安よりも、その家の玄関先に置いてあったブランコに乗って楽しかった記憶の方が残っている。そもそも「迷子になっちゃった」と助けを求めてその家を選んだのは、玄関先のブランコに乗りたかったから、という動機が大きかったように思う。

数年後、友達が増えて縄張りが広がると、玄関先にブランコがあるその家を見つけた。なんだ、こんなに近い場所だったのかと拍子抜けして、あのときの俺は幼かったなぁと思ったものだ。

母に連れられて浅草の松屋とか銀座の三越や高島屋へ行くと、私は必ず迷子になった。たぶん母について歩くのが退屈で、興味のあるほうへと勝手にふらふらと行ってしまうからだろう。たいていはおもちゃ売り場へ行っていたはずだが、とにかくデパートに行くと私は間違いなく迷子になった。しかしデパートで迷子になっても館内放送で母親を呼び出してくれるから、不安は全くなかったのだ。当時から母によく言われた。
「あらやだ、またタケシがいない、と思ってると『ヤマシタタケシ君の〝お母さん〟が迷子になってます』って館内放送が流れるんだよ。あたしゃ恥ずかしくって、迎えに行くのがイヤだったよ」

そんな子だったから、目の前を流れている大きな川を辿っていけば家に辿り着く、と聞いたらそれを確かめてみたくなるのは仕方がない。その家で遊ぶのに飽きた私はふらりと外へ出て河川敷に行くと、てくてくと歩いた。どのくらい歩いたか記憶は定かではないが、幼い子の足で2時間程度だったから、たいした距離ではないはずだ。果たして母が話したとおり、川を辿っていったその先には、いつも遊んでいる河川敷の景色が広がっていた。

「本当だ家に帰れた、すごい!」

電車に乗っていくほどの場所からでも、歩いて帰ることができる、ということだけで新鮮な体験だったし、川を辿っていけば迷わずにどこかに行けるという事実は、当時の私にとって大発見だった。大げさにいえば新大陸を求めて航海に繰り出した中世の冒険家が、地球が丸いことに気づいたときと同じような衝撃だったはずだ。

私は母に黙って知り合いの家を出て勝手に帰宅したくせに、後から慌てた声の母から電話がかかってきて「おまえ、ほんとに家にいるのね、ほんとね」としつこく確かめられても、母が焦燥している理由がわからなかった。そうした身勝手さは今も直っていない。そんな行動が、私にとって初めての旅だったと思う。

煎じて考えれば、見たことのない景色を見たいという気持ちは、その場所と自分のいる場所を繋げること、つまり点と点を線で結びながら行動範囲を広げていきたいという欲求であり、さらに線を増やしていって面を作り、縄張りを広げていくことでもある。

真っ暗な母胎から這い出し、光と空気を感じる。やがて目が開き、ぼやけた世界が見えるようになると四つん這いでうろうろして畳に触れ、タンスにぶつかり、壁にぶち当たる。二足歩行できるようになると家を出て土を踏みしめ、草の匂いを嗅ぎ、どこまでも広がる大地に帰り道がわからなくなって迷子になる。やがて自転車に乗ると行動範囲は飛躍的に広がり、大地の果てまで行ける気がするが叶わぬと知り、バイクに乗れば今度こそと思うもののまたもやそれが幻と悟るのだが……。

ともあれ、私が旅に出る理由のひとつは、赤子の習わしを未だに止められないからなのだろう。

常習的に旅をするようになったのは19歳の頃からだ。高校を卒業するときに「大学に行ったつもりで4年間は遊ばせろ」と両親に宣言し、3万円で買った中古のスクーターで東京から九州まで走り、桜島をぐるりと回って帰ってきた。それを皮切りに、アルバイトで稼いだ金を郵便貯金に放り込むと、バイクを走らせてふらふらと放浪し、金がなくなると家に帰ってまたバイトをして小銭を貯めて……を繰り返した。
 
旅に出る動機は「見たことのない景色を見たい」という好奇心であることに変わりなかったが、それだけではなかった。もうひとつの大きな動機は、ひとりになりたいという思いだった。煩わしい社会から抜け出して、誰にも干渉されないためにバイクを走らせて見知らぬ土地へ向かっていた。観光地には近づかず、ひと気のない山道を選んで移動した。人や時間に縛られたくなかったからホテルや旅館はもちろんキャンプ場も利用せず、林道を走って山奥にテントを張って眠った。

ひとりになりたい、という思いの裏にあったのはハミダシ者の自覚である。12年間の学校生活で知った自分の居場所のなさであり、社会不適合者であるがゆえの逃亡である。なりたい職業、やりたい仕事はあったが、自分の才能と性格を照らし合わせると、そこへ至る道はまったく見えなかった。モラトリアムといえば聞こえはいいが、社会人として大人になる覚悟を持てなかった落ちこぼれが、世間を相手にひとりでかくれんぼしているだけのピーターパンシンドロームにすぎない。

とはいうものの、出口がないことがわかっている迷路に足を踏み入れるのは愚か者のやることだという思いもあったし、ちっぽけな自尊心を大切にしたいという弱さがそれを認めなかった。両親に宣言した4年という猶予がすぎても、知らないふりをしてそんな生活を続けた。

国内もあらかた行き尽くすと外国に興味が向いた。購読していた雑誌の海外ツーリング記事にも刺激された。アメリカかオーストラリア、どっちかの大陸をバイクで横断しよう。そのために200万円貯めようと決めた。ざっくりと100万円は旅費、100万円はバイクの購入と運搬費用だ。稼ぎのいいバイトを見つけて半年もすると貯金はあっさりと100万円を越えた。実家暮らしだったし、生活費もロクに入れてなかったから当然だ。

しかし気づくと貯金は崩れ、海外へ出ていく気力が失せてしまっていた。自分が生まれた日本という国に対して、そして日本人である自分に対して何ひとつ誇りを持っていないことに気づき、それを克服することができなかったからだ。

外国に行く意味を考え続けていた。移住するわけではないのだから気楽に構えればよかったのに、日本人である自分に自問自答した。どの国へ行こうと私はどこまでも日本人だ。旅先で出会った人々に「おまえは何をしにここへ来たんだ」と訊かれたら「日本にない景色を見るためだ」と答えることができるが、「ほほう。おまえが住んでる日本はどんな国なんだ」と訊かれたら、私はその答えを持っていなかった。

演歌や握り飯はダサいからロックを聴いてハンバーガーをかじってきたし、歌舞伎も落語も年寄りの趣味だと思っていたからハリウッド映画を見てきた。着物なんて七五三以来着たことがないし、持ってもいないが、ジーンズは毎日履いている。漢字よりもアルファベットを使いたがった。そんなふうに日本古来の文化をカッコ悪いものと決めつけ、アメリカ文化にどっぷりと浸かって生きてきたのに英語すらしゃべれない人間が、アメリカやオーストラリアに行って何を見て、何を感じ、何を語ればいいのかまったくわからなかったのだ。

貯金は1ヵ月もすると底が見え、それでも自分を慰めるように新しいテントを買うと完全に底をついた。バイクにはさっぱり乗らなくなった。テントは押入れの肥やしとなり、不動になったバイクは鉄くず業者に引き取られていった。そうして私は旅をしなくなった。

アルバイトではなく正社員として就職できるまで半年かかり、毎日満員電車に乗っていたら不眠症になった。夜はいつまでも長く、そのくせ朝はすぐにやってきた。眠れないことを気にするとよけいに眠れなくなるし、眠ろうとするほどに眠れなくなるから夜な夜なゲームに興じるようになった。悪循環にはまり誘眠剤を手放せなくなった。薬をもらいに病院へ行き、医師から「気分転換するように」と言われてもそのやり方がわからない。やはり社会不適合者なのだ。そもそも、社会人のふりをしていただけで化けの皮が剥がれただけなのかもしれない。なぜそうなったのかは分からなかったが、原因を探し出そうとすると悪循環は深まっていき、薬はどんどんと強くなっていった。
 
そんな循環を断ち切ったのは、バイクと旅だった。別の医師からも「気分転換を」といわれたとき、ふと「またバイクに乗ろう」と思った
のだ。それまでバイクのことも旅のこともすっかり忘れていて思い出すこともなかったのにそのときはなぜかそう思えた。

せっかくだからと大型二輪免許を取り、中古の大型バイクを買った。会社勤めは続けていたから、以前のように数ヵ月も旅するわけでもなく、天気のいい週末に日帰りの短いツーリングをした。久しぶりのバイクとの生活は、未知の土地を目指すのではなく、散歩気分でのんびりとバイクを楽しんだ。

そんなことを何度か繰り返しているうちに、私は布団に入ると三つ数える前に眠りに落ちるようになっていた。手のひらさえも見えないほど濃い霧が、なぜか突然さっと晴れたように感じた。

趣味であるバイクと旅を食い扶持にすることはずっと避けてきていた。人生の逃げ場がなくなる。それこそ気分転換のための方策としておきたかったからだ。しかしバイクの旅をやめた途端に眠れなくなり、それが気分転換になることすら思い出せないのは、私にとってバイクで旅をする行為が気分転換や趣味という範疇に収めることができないことを実証したことになる。

「生きているかぎり、旅はやめられない」

ならば旅をしよう。

若い頃、旅を終えて家に帰る理由のひとつは金が尽きたからだった。しかし理由はもうひとつあった。旅先での見聞や体験を誰かに話したい、伝えたい、共感してもらいたいという衝動を抑えきれなくなったからだ。ひとりになりたくて旅に出るくせに、他人とのつながりを求めて旅を終えていた。それを否定するように、金の切れ目が旅の終わりと思い込んでいた。でも、こそこそとひとりで逃げるような旅はもう止めようと誓ったのだ。

そんなふうにして、私は二輪雑誌編集部に転職し、バイクと旅を飯のタネにするようになった。

「裸になれ」

当時私が在籍した雑誌の編集長はよくそう言った。もちろんこれは比喩で、モノを書いて人様に見せ、金をもらって食っていく以上、恥も外聞も捨ててカッコつけず、取り繕うことなく本来の自分を曝け出せという意味だ。誰かを感動させられる芸も才能もないのなら裸踊りくらいやれ、という意味も含んでいたのだろう。

旅を飯のタネにするようになって、もうひとつ劇的に変化したことがある。それは自分の大切なモノを表現するだけではなく、他人の大切なことも明らかにしていくようになったことだ。インタビューをしたりイベントを取材すると、前向きな言葉や幸福な体験を聞くことが多いが、ときに無慈悲な現実を突きつけられる。

2011年。世界最古のロードレースであり、舞台が公道であるがゆえ、毎年死亡事故が起きるバイクレース『マン島TT』に参戦する友人の松下ヨシナリを追いかけたくなり、結局は編集部を辞めて独立。イギリスへと渡った。

イギリスの旅は私の好奇心をがつがつと刺激した。2歳児並みの英語を操りながら、勝手のわからない文化のなかを泳いでいくことは想像していたよりもはるかにおもしろかった。これまでに覚えた知識と知恵を総動員しつつ、思考をぐるぐると巡らせて動いていくことが楽しくてしかたない。シナプスがギュンギュンと伸びてつながり、新たな知識となっていくスリルと興奮が、「いま、俺は生きている」という事実を否応なしに突きつけてくる。

その一方でイギリスの旅は、私に死も突きつけた。ドーバー海峡に面した町の介護施設で暮らす恩人のY氏を訪問したのだが、私の目的は彼を見舞うことだけでなく、彼の母の死を伝えるためでもあった。認知症を患っているY氏が私の言葉をどこまで理解できるか不安だったが、私が伝言してしばらくするとY氏は絶叫するように嗚咽した。またマン島ではバイクでやってきた観戦客が死に、レースではクラッシュが起き、数人のTTライダーが死んでいった。日本からは同業者である竹田津敏信が死亡したという報せが届いた。それを聞いて憚らず号泣していた松下ヨシナリも、2年後の2013年、再び挑んだマン島TTで死んでしまった。

私にとって、イギリスの旅はいつも死の気配が濃くまとわりつく。訪れるたびに誰かが死に涙を流す。だが、私は生きている。

松下が死んで1ヵ月後、私はアメリカにいた。ロッキー山脈の東端で行われる登山レース『パイクスピーク』に挑戦する元同僚である伊丹孝裕を追いかけるためだ。決勝レース、伊丹の写真を撮るためにコースサイドで待ち構えていると、彼が転倒したという報せが入った。またかと思わずにいられなかった。レースの性質上、レースが終了するまで状況を把握できない。私は松下の事故の時と同じような悲しみに包まれる覚悟をした。自分が彼らに悪影響を与えている可能性を考えたりしながら、レースが終わるまで数時間の厳しい時を過ごした。

しかしバイクはフレームが折れるほどのクラッシュだったにも関わらず、伊丹は無傷だった。私は胸を撫で下ろしつつも、ひとつの事実をはっきりと自覚せざるをえなかった。彼らが決勝レースを無事に完走して目標を達成することを願っているのは確かだが、それだけを期待しているわけではない。取材記者といえば聞こえはいいが、要は野次馬代表者である。他人の幸福や歓びを目撃したいだけではなく、時に絶望や悲しみも幸福と同様に見届けたい。そしてそれをいかに自分の中に取り込めるかを求めているのだ。

つまるところ、私にとっての旅とは全てを確かめてみたいという子供のころから変わらない欲求に起因している。登山家の真似をすれば「未知の土地があり、見知らぬ人たちがいるから」なのである。いや、それだけでもない。友人に会うため同じ場所へ行くこともある。この世からいなくなったが、松下ヨシナリは、今年もイギリスの旅へと私を誘う。彼のメモリアルベンチがマン島に置かれるからだ。それを見るために、ベンチの設置に尽力してくれた人に会うためにまたマン島へ行く。伊丹の方は今年のパイクスピーク参戦を断念したが、彼がいなくとも私はパイクスピークへも行き、限界に挑むライダーたちを見届けるつもりだ。

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text:山下 剛/Takeshi Yamashita
1970年生まれ。東京都出身。新聞社写真部アルバイト、編集プロダクションを経てネコ・パブリッシングに入社。BMW BIKES、クラブマン編集部などで経験を積む。2011年マン島TT取材のために会社を辞め、現在はフリーランスライター&カメラマン。

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