イメージについて

アヘッド_映画とクルマ

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イメージほど抽象的でありながら重要なものはない。多くの場合、ひとは本質を見極めるよりもイメージによって、ものごとを判断しているように思う。その人のイメージやブランドイメージなど、イメージが良いものが好まれ、売れる傾向にある。

text:嶋田智之、山下敦史、若林葉子、神尾 成 [aheadアーカイブス vol.154 2015年9月号]

Chapter
イメージについて
“ネオクラシック”の デザインとイメージ
映画がクルマやバイクの イメージを創りだす
ラリーレイドは 想像力からはじまる
イメージの持つチカラ

イメージについて

また、ひとが何かに挑戦するときもイメージが必要になってくる。具体的なイメージが掴めれば実行に移せるが、イメージが湧かないことを実践することは難しい。今回はクルマやバイクを取り巻くさまざまなイメージについて考えてみたい。

“ネオクラシック”の デザインとイメージ

▶︎ニュービートルが日本に導入された当時は、本国ドイツz「ザ・ビートル」と名付けられて、デザインもリニューアル。さらに初代のビートルに近いフォルムとなっている。

text:嶋田智之

ホントにうんざり、だった。気分が悪かった。何がって? いや、例のデザインにまつわる一連の盗用疑惑問題である。渦中にあった人物を庇う気持ちなんてこれっぽっちもないけれど、それがデザインであれ絵であれ写真であれ音楽であれ文であれ、パクるヤツはパクるし、逆に無意識に似ちゃうことだってある。何より苛立たしいのは、それが魅力的であるかどうかという最も大切なところが置き去りにされたまま、糾弾と言い訳だけが延々と繰り返され続けたことだ。
僕はデザインも絵もできない傍観者にすぎないが、これはないな、と思った。〝日本発〟がコレであって欲しくはない、と思っていた。心に訴えかけてくるものが何ひとつなくて空っぽな印象だったし、そもそも誰かに説明されなきゃ意図がちんぷんかんぷんなモノに、世界に向けて何かを発信するチカラなんてあるはずないからだ。話題絶頂の頃、クルマ好きの友達のひとりが面白いことを言った。

「そういえば、ちょっと似たような出来事がクルマの世界でも時々あったよな。レトロ・デザイン、これでいいのか? なんて」あったあった。確かにあった。1998年発売のニュー・ビートル、2001年発売のニュー・ミニ、そして2004年に原形となるプロトタイプが公開された2007年発売のチンクエチェント。

自動車の歴史に深く刻まれた世界的な名車が偉大な名前とともにニュー・モデルとして蘇ったとき、そのたびにスタイリング・デザインの是非を問う声が聞こえてきたものだ。それらのスタイリング・デザインは、パッと見た瞬間にかつて一世を風靡した御先祖様を誰もがありありとイメージできる、モチーフがどこにあるのかが即座に理解できるものだったからだ。
▶︎クラシック・ミニは、1969年に公開された映画「ミニミニ大作戦」で迫力あるカーチェイスを繰り広げて一躍有名になった。一方、今月12日に公開したコメディ映画「ピクセル」では地球を守る秘密兵器として最新型のニューミニが大活躍する。

ビートルのときもミニのときもチンクのときも、マニアックなクルマ好き達を中心として、「元ネタの方がいい」「新しい提案がない」「過去を振り返ってどうする?」みたいな議論めいたものが、実にあちこちでなされたものだった。

後になって海外の同業の友人達に訊ねたら、どの国も似たり寄ったりだったようだ。しかも、これまた面白いことに見事に共通していたのは、頑なに認めたがらなかったのはカチコチの原理主義者的なマニアだけで、ほとんどのクルマ好きは和やかなトーンで議論を楽しみ、クルマ好きでもなんでもないフツーの人々はストレートに歓迎していた、ということである。

そして今、もはやそんなことをクチにするヒトは見当たらない。御存知のとおり世界中でヒットし、様々な街のあちこちをたくさん走っている。愛されてるのだ。
この3車がすんなりと受け入れられたのは、それぞれのスタイリングが、見る人を自然と笑顔にさせるような雰囲気を持っていることが大きい。どこか人懐っこくて、和ませてくれる癒し系。その辺り、まさしく御先祖様と一緒だ。

ところが、その〝元ネタ〟とそれらのクルマを並べてみると、イメージとしてはとてもよく似てるのだけど、実は様々な部分がかなり異なっていて、カタチをそのままなぞったものではないということがよく判る。

過去の名作をモチーフにしたことは確かであっても、それは造形そのものを過去から持ってきたというより、オリジナルのスタイリング・デザインが生み出した世界観、与えてくれたエモーションを時を経て新たに再現するために、一度全てをゼロに戻して再解釈、再定義し、最初からデザインを組み立てなおしたような、そういうプロセスで作られているのだ。

しかも、ミニはともかくビートルは4代目ゴルフ、チンクエチェントは2代目パンダのプラットフォームを基礎に作られていて、ホイールベースとトレッドの比率をはじめ、元ネタのそれとは明らかに異なった逃れられない前提条件をクリアしつつ、同じイメージを持つスタイリングを成立させている。デザイナー達は、実はかなり高度なことをしてるのである。だから、過去作品の劣化コピーに見えたりすることがない。
▶︎ニューチンクは2007年の登場以降、カラーや意匠の異なる限定モデルを数多く輩出して、チンクのオシャレで個性的な世界観を演出している。今年7月に発表された新型モデル(下)は、約1,800箇所もの改良が施されたが、評判の良いルックスは、ほぼ同じイメージをキープした。

昔のビートルとミニとチンクエチェントは、人々を幸せな気持ちにさせた乗り物だった。今はその世界観を受け継いだ新しいビートルとミニとチンクエチェントが、人々を幸せな気持ちにさせている。デザインとは人々を幸せな気持ちにさせるためのものであって、そこにこそ真の価値がある。不愉快な気持ちにさせるために存在してはならないのだ。僕はそう思う。

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text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

映画がクルマやバイクの イメージを創りだす

text:山下敦史

「待ってよドク。デロリアンをタイムマシーンに改造したの? 信じられないよ!」
「どうせ作るならカッコいいほうがいいだろうが!」
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のもう1つの主役といってもいいクルマ、デロリアン。鈍い銀白色に輝くあのクルマは、まさに未来を形にしたように見えた。この映画でデロリアンというクルマの存在を知り、また魅了された人は多いだろう。
映画の中で出会うと、思わずそのクルマに一目惚れしてしまうなんてことはないだろうか。それまで気にも留めなかったクルマが、妙にカッコよく見えてしまうのだ。これも古い映画で恐縮だけど、『グラン・ブルー』でジャン・レノ扮するエンゾが乗るフィアット500。

潮風でサビは浮き、フロントグラスも外れたままだ。だがその小さなボロ車に巨体を押し込んで疾走するエンゾの姿がユーモラスで、豪放だが良くも悪くも子供っぽさを残す彼の人となりが、クルマひとつで分かってしまう。決してカッコ良く扱われているわけではないのに、あの愛すべきクルマに乗ってみたいと思わずにはいられない。

これがイメージの力だ。カタログやインプレッションは比較検討するには有益だが〝好きになる〟ためのものとは違う。恋に落ちるには、何か〝魔法〟が必要なのだ。
▶︎「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」でバイクを駆る謎の女スパイ、イルサを演じたのはスウェーデン生まれの女優レベッカ・ファーガソン。女性がバイクアクションを演じるメジャー映画は、2003年公開の「トゥームレイダー2」のアンジェリーナ・ジョリー以来となる。ちなみに女性ライダーがタイトな黒のレザースーツを着るというイメージを築いたのは1968年のイギリスとフランスの合作映画「あの胸にもういちど」だ。この映画の主人公レベッカに影響を受けて「ルパン三世」の峰 不二子は誕生した。

この夏の超大作『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』。このシリーズは第2作でのバイクアクションが伝説ものだが、第5作の今回は、左右非対称のライトが特徴的なBMWのスーパースポーツ・S1000RRが大活躍を見せる。テロ組織の一員ながら、何度もトム・クルーズ扮する主人公イーサンを救う謎の美女イルサ。黒のツナギに身を包み、漆黒のS1000RRにまたがる彼女の姿が凜と美しく、露出度0なのに官能的ですらある。

それがいきなり派手なアクセルターンで仲間のはずのテロ一味をなぎ倒し、機密ファイルを持ってモロッコ市街を逃走する。バイクを華麗に操るヒロインなんて久しぶりだ。彼女を追い、テロ組織のバイク軍団、そしてイーサンが凄まじいチェイスを開始する。

うねる山道に入るとS1000RRの機動力とハイパワーの見せ所だ。先行するイルサと猛追するイーサン、クルマの間を縫って激走するバイク同士のバトル! カーチェイス場面は数あれど、これほどのスピード感は空前絶後。

しかもこの場面を、撮影当時52歳のトムがスタントなしで演じているからこそ価値がある。さらには一歩も引かないイルサの走りが、ヒーローと対等なヒロインを印象づけるのだ。バイクファンならBMWに対する印象が覆されるだろうし、そうでなくても単純に「バイクすげえ!」と憧れを抱くであろう好場面だ。
そう、映画の中のクルマやバイクは、心の中に強い憧れを植え付けるのだ。その意味で外せないのは、永遠の〝男の憧れ〟007。トヨタ2000GT、ロータス・エスプリなどボンドカーは多々あるが、やはりボンドカーといえばアストンマーティンが第1に来るだろう。

特にダニエル・クレイグ主演の現シリーズでは、新車種を劇中で初お披露目するなど、同社との蜜月関係が続いている。12月公開の『007 スペクター』の予告編でも、市販予定すらない特注車・DB10が真っ先に紹介されるほどだ。ボンドの活躍を見て、〝いつかはアストンマーティン〟との夢を抱いた人は少なくないだろうが、それは絶対正しい。
▶︎「007といえばアストンマーティン、アストンマーティンといえば007」と言われるくらい、クルマと映画が互いのイメージを創りあげてきた。ボンドカーが他メーカーだった時期もあるが、2002年の「ダイ・アナザー・デイ」以降は全てアストンマーティンだ。12月に公開される『007 スペクター』の映画発表会でもニューボンドカーとして写真の「DB10』がお披露目された。「DB10」は映画のために10台製作されたが現時点で市販予定はない。

映画に影響されてそのクルマを好きになるなんて、単純で子供っぽいと思われるかも知れない。でも性能だけでクルマを選ぶならコンピュータにでも任せればいい。「どうせ乗るならカッコいいほうがいいだろうが!」だ。

クルマを選ぶ、好きになるということは、自分の中にあるクルマのイメージと向き合うことでもある。クルマに何を求め、何をカッコいいと思い、一緒にどんな時間を過ごしていきたいか。世の中のすべてのクルマに試乗するなんて不可能だけど、映画を観ることでそのクルマがある暮らし、そのクルマと紡ぐ物語を垣間見ることができる。実際には触れたこともないクルマが、一つの映画を通じて特別なものに変わる。それはとても素敵なことじゃないかと思う。

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text:山下 剛/Takeshi Yamashita
1970年生まれ。東京都出身。新聞社写真部アルバイト、編集プロダクションを経てネコ・パブリッシングに入社。BMW BIKES、クラブマン編集部などで経験を積む。2011年マン島TT取材のために会社を辞め、現在はフリーランスライター&カメラマン。

ラリーレイドは 想像力からはじまる

text:若林葉子

1月にダカールラリーに行ったばかりなのに、またモンゴルに行くのかと、自分でも不思議なほどRally Raid(ラリーレイド)という競技にはまってしまったのは何故なのか。 

今のところ、私にとってのラリーレイドとはモンゴルラリーであって、一度しか見ていないダカールラリーについて多くを語ることはできない。モンゴルラリーは今年5回目の出場で、過去にナビゲーターを3度、ドライバーを1度経験した。前回ドライバーで走った際にはベテランナビ(三好礼子さん)に支えてもらったが、今回はナビゲーターを置かずにソロで走った。

ナビゲーションとドライビングを両立させながら一人で走ったことによって—つまり、ほぼ一日中、一人で考え、自分相手に会話しているわけなのだ—この競技について、自分なりに少し分かったことがある。
ラリーレイドという競技は、いろいろな意味において〝想像力〟が重要なのだ。

同じラリーでもWRCに代表されるようなスピードラリーにはレッキ(下見)があって、あらかじめコースを予習することができる。しかし1日の走行距離が何百キロにも及ぶラリーレイドでは下見は不可能。全てのコースが言わばぶっつけ本番。だから選手は〝道〟を読む。

例えばモンゴルの場合、小高い丘の先で道が大きく蛇行したり、蛇行しつつきつい下りになっていることも多く、それは丘のてっぺんまで行ってみないと分からない。先読みして準備していないと、大変な事態が起こりうる。

またルートブックには分岐の指示もないのに、道がいくつにも分かれていることもよくある。それは村が近づいているときに多く、その村が大きければ大きいほど道の数も信じられないほど多くなる。両手の指を大きく広げて、平泳ぎをするように砂を引っ掻いたみたいなふうだ。でも何百メートルにも渡って、何本にも広がるこの道、実は全部、その先の村につながっていて、最後には1本になるのだ。初めて出場したときにはパニックだった。

ドライビングということで言うと、そこそこ大きな川を渡るとき、どこから入ってどこから上がるのか、完全にイメージを固めないと渡れない。他のクルマの轍をトレースすることもあるし、それが見つからないときには、近くに地元の人がいたら、どこなら安全に渡れるかを教えてもらう。川の途中ではまるより、結局時間のロスは少ないのだ。
また傾斜のきつい丘や山を登るときにも、想像力を働かせることが大事だ。2010年に大きな砂山を登りきれず難儀したことがあったのだが、考えてみれば、あのとき私はちょうどてっぺんに最終イメージを置いていたのだ。

それは最近になって、ナビをしてくれていた三好礼子さんとの何気ない会話で気づいたことで、てっぺんよりほんの少し向こうにイメージを置いていれば、その手前で失速することはなかっただろう。ただしちょっとでも行きすぎると、向こう側に落っこちる危険があるから、本当にほんの少しのアクセルのオンオフの範囲なのだけれど。

そして、山肌にそのまま斜めにへばりついたような傾斜のきつい道は、ゆっくり考えている暇はない。いわゆる逆バンクで、ある程度の速度で行かないとずるずるとクルマが滑り落ちていってしまうから。

こういうとき、私は毎度毎度思う。そうまでして行きたい場所があるのか、そうまでして逢いたい人がいるのかと。この道を行ったモンゴルの人たちの想いを想像して胸を熱くする。
ルートブックを書いた主催者の心中を想像し、この先の道を想像し、そんなことを考え、あんなことを考えながら走っていると、500キロの道のりは案外あっという間だ。「たった一人で寂しくないの? 心細くないの」と聞かれたけれど、多分、これが旅ならきっと寂しいだろう。でもこれは競技だ。

500キロの道のりのほとんどを誰とも会うことはなくても、同じ道をみんなが走っている。ときには轍を探し、遠くにうっすらと立ち上る砂埃を追い、たとえ姿が見えずとも、私の脳裏にははっきりと同じ道を行く仲間の姿が見えている。だから少しも寂しくはない。

想像がでたらめな空想に終わらず、一人でも完走できたのは、過去4回の経験があったからだと思う。経験と知識によって、想像力は具体性を増す。努力しだいではチンギス・ハンの軍勢とともに大草原を掛けることだって夢ではない。ただ速く走るだけがラリーレイドの面白さではない。想像力によって、ラリーレイドの経験は深みを増す。想像力こそがこの競技の醍醐味なのだ。

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。

イメージの持つチカラ

●SUZUKI GSX-S1000ABS
車両価格¥1,115,640(税込) 総排気量:998cc
最高出力:107kW(145ps) / 10,000rpm
最大トルク:106Nm(10.7kg) / 9,500rpm
text:神尾成

〝イメージできないことは実現できない。イメージできることは実現できる〟と、ずっと考えてきた。子供の頃から鉄棒や跳び箱など、新しいことに挑戦するときは、方法よりも具体的なイメージを持つことを心がけていた。

例えば逆上がりに挑戦する場合、「地面を思い切り蹴って、腹筋を使ってお腹を鉄棒に近付ける」というような理屈や方法を考え始めると思うように動けなくなったが、逆上がりの上手なひとを観察していると、成功するイメージが湧いて、自然と逆上がりができるようになっていった。

同じように跳び箱も高い段数を飛び越えるひとを見ていれば、できるか否かは別として自分にも跳べるはずとポジティブな気分になれたのだ。
それと似たようなことが本格的なスポーツでも起きているように思う。逆上がりとはレベルの違う話だが、フィギュアスケートのように技術を競う競技などは誰かが新しい技をマスターすると、そのひとに続いて同じ技を習得するひとが必ず出てくる。

バイクの派手なアクションを争うフリースタイルモトクロスでも、十数年前までは理論的に不可能だと言われていたバックフリップ(後方宙返り)が、現在は当然のように行われている。ひとりのパイオニアが切り開いた新たなステージは、多くのひとのイメージを増幅させて、それぞれの可能性を広げていく。

話は変わるが、バイクに乗っていて予期せぬ状態でタイヤが滑ったとしよう。それが同じカーブで同じスピード、同じ路面状況だったとしても、コーナリングのイメージが描けているときは自然と身体が反応してリスクを回避できる。

しかしコーナリングのイメージがはっきりしていないときにタイヤが滑ると反応が遅れて転倒する可能性が急激に高まってしまう。普段のクルマの運転でも対向車とのすれ違いや車庫入れなど、クルマやバイクにおいてイメージを持つことが重要なのはお分かりだろう。

またスポーツや運転に限らず、やりたいことや、なりたい自分にもイメージがないと到達できない。何をしたいのか、どうなりたいのかということを思考しているときは、自然とイメージが湧いてきているはずだ。

しかし理屈を考えて方法に落とし込んでいく段階でイメージを歪めてしまうことが多い。特に年齢を重ねると理性的になりすぎてイメージを信じきれなくなっていく傾向がある。

本来、理屈や方法というのは第三者に説明するためと、後の自分を納得させるために必要な事柄でしかない。全てのことがそうだとは言わないが、基本的にひとはイメージで物事を判断し、イメージで方法を組み立て、そしてイメージを達成させる力があるのではないだろうか。

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text:神尾 成/Sei Kamio 
1964年生まれ。神戸市出身。新聞社のプレスライダー、大型バイク用品店の開発、アフターバイクパーツの企画開発、カスタムバイクのセットアップ等に携わり、2010年3月号から2017年1月号に渡りahead編集長を務めた。現在もプランナーとしてaheadに関わっている。
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