忘れられないこの1台 vol.62 FIAT500

アヘッド FIAT500

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1台のクルマに長く乗るほうで、じつは過去のクルマといっても未だに乗っている。そのクルマは1971年式のFIAT500。購入したのは大学1年生なので、もう25年以上も前のこと。こんなに長いと家族以上のなにかがあるわけで、我が人生は大きな影響を受けているというか、翻弄されまくっている。

text:近藤暁史 [aheadアーカイブス vol.140 2014年7月号]
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vol.62 FIAT500

vol.62 FIAT500

そもそもなぜFIAT500を選んだのかというと、よくあるルパン三世の影響。というと同じクリーム色ということもあってか「カリオストロの城」ですよね、なんて言われるけど、「いやいや、幼稚園の頃に見たTVの最初のシリーズ」というとポカンとされるだけ。こちらもそんなに歳をとっているわけではなくて、グレーの丸いクルマがなんとなく忘れられないだけなのだが……。

買ったのはバブル真っ盛りということもあって、今だから言えるけど、バカ高&パッと見程度良し。でも程度最悪。今みたいに専門店もほとんどなく、憧れのクルマを前にして舞い上がり思わず即決してしまったのは、若気の至り以外のなんでもなし。まぁ、手付け金3万円のみで、保証人なしで60回ローンを組ませてくれたのはバブル時代ならではだ。

しかしその後が凄かった。イタリア本国で全塗装&セミレストア済み(セミってなんだろ?)との謳い文句だったものの、まず半年でボディが蚊に刺されたようにプクプクに。エンジンもオイル交換をしても1週間で真っ黒という、中はどうなっちゃっているの状態で途方に暮れつつも、ローンがあるので捨てるわけにいかず。丸いコロコロしたクルマとの転落人生の始まりとなった。

風呂なし(!)アパートのひとり暮らしなので金はなく、煙を吐きはじめたエンジンは畳の上でオーバーホールを決行。ボディはさすがにすぐにはできないので、社会人初のボーナスを突っ込んでレストア。まだバブルの名残りがあったので結構な額をもらったものの、レストア代もバカ高で「もう1台買えるほど」と、きれいさっぱりなくなった。

肝心のパーツはというと、今みたいにお買い物カゴに入れてポチというのはなく、イタリアへファックスして為替を送って決済、という非常に手間がかかる方法でなんとか入手していた。イタリア人には珍しく、チャンと送ってくれたのは唯一の救いか。と、FIAT500様に殉じた我が人生ながら、じつはこの通販ノウハウが活きていて、今では各地のレストアラーに販売するほど。

ただし「ついでに自分のパーツも買っておくか」で倉庫を2つも借りてしているので経費は莫大。もうこうなれば一蓮托生、死んだら車内に放り込んでもらって一緒に埋めてもらえたらと、真剣に思っています、ハイ。

FIAT500

1957年に登場し、1975年まで生産されたイタリアを代表するクルマであり、国民の足として爆発的なヒットとなった。空冷2気筒エンジンや個性的なスタイルなどはエンジニア界の鬼才ダンテ・ジアコーサが手がけたもの。またアバルトなどのハイチューンモデルも登場し、レースなどで活躍した。

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text:近藤暁史/Akifumi Kondo
エンジンのOHから全て自分でやるエンスー自動車ライター&ケミカル&カーケアグッズ評論家。愛車は19歳の時に買ったFIAT500。次々に登場するケミカル&カーケアグッズは使ってみないことには気が済まない、正真正銘メンテナンス馬鹿一代である。
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