おしゃべりな クルマたちvol.44 シィシィーナがやってきた

シィシィーナがやってきた

アヘッド シィシィーナ

実際、この日以来、彼はバイクを買うぞとは言わなくなったし、もう一度、走りたいみたいな、私に言わせれば不謹慎なことも口にしなくなったのだ。あれはひとときの熱病であったと私は胸をなで下ろしていたわけだが。

彼の企みは水面下で前進していたと後から知った。時間がかかったのは仕事が忙しかったこと、間に引越をしたこと、なにより保険に手間取っていたからと教えられて開いた口がふさがらなかった。イタリアの免許からフランスのそれに切り替えた彼は当地ではバイク乗りとしては“新人”と認識されるために保険料が跳ね上がる。

それで踏ん切りがつかなかったが、余計なことを教える友人がいるものだ、この手のライダーを引き受ける保険会社があるとわかって、事態は急展開を見せた。去年の誕生日から1年後の週末、夫がプロバンスの田舎まで散歩に行かないかと言い出した。豚児が眠る早朝のこと。

ステアリングを握る彼に「運転用のメガネ、忘れるな」、こう言われて不信に感じたが、春だし、仕事は休みだし、結婚生活20年を過ぎて彼にも思うところがあるのではないかと私は考えた。いや、思うところは確かにあった。帰りに私にクルマを運転させる、これが彼の思うところなのだった。

村のかわいい教会の前でインターネットで見つけたというCBRが待っていた。おそらく遠い昔、彼はこんな顔をした子供ではなかったか。満面に笑みを浮かべて試乗に出掛ける夫を見てこう思った。

一回りするとオーナ−とともに近所のバールに入って書類を受け取り、小切手を渡して握手した。試乗から握手まで45分、その間、私が発したのは一言のみ。あなた、いったいいつの間に。

行き交うクルマの少ない休日の朝、乾いた空気をざくっざくっと切るように、背中を丸めたライダーが進む。これが私の知る夫なのかと不思議な思いだ。携帯から息子に電話して事態の成り行きを話すと、彼が笑いながらこう言った。

「やっぱりな。もうすぐ本物のシィシィーナが来るって言ってたよ」。シィシィーナとは娘がバイクのプラモデルに付けたニックネームだ。

桜が満開の山道を豪快なエンジン音をたてながらシィシィーナが走る。あっという間に小さくなるその姿を追いながら、私はちょっと複雑な思いで、それでいて少し新鮮な気持ちでクルマのアクセルを踏み込んだ。

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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。

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