首都高生誕50年 vlo.1 日本の復興と発展のシンボルだった

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だが、首都高速の歴史は決して長くはない。高度経済成長が本格化しつつあった1950年代末、来るべきモータリゼーションが都心部の深刻な交通渋滞を招くと予想した当時の政府は都市内高速道路の建設を決定。それを受け、1959年に首都高速道路公団が設立された。いまから53年前のことだ。

3年後の1962年末には京橋〜芝浦間の開通にこぎ着けたが、このときの距離はわずか4・5㎞。その後も急ピッチで建設が進められ、東京オリンピック開会直前の1964年8月には都心から羽田空港へのアクセスを含む38・3㎞が開通した。

といっても、上記の経緯は1966年生まれの僕にとって未体験であり、どうしても無味乾燥な記述になってしまう。果たして当時の人々は東京の中心で建設が始まった首都高速をどんな気持ちで迎え入れたのだろうか。話を聞くのに適任な人物が頭に浮かんだ。

いまだ現役のモータージャーナリストである僕の父は1940年生まれ。高校時代にはオートバイに心酔し、カミナリ族と呼ばれていたが、20歳を迎える頃にクルマに目覚め、次第にのめり込んでいったという。

「首都高速ができたときはそうとうワクワクしたよ。信号のない道路を思い切り走れるってだけで気持ちが昂ぶった。といっても、最初の頃は距離が短いこともあってあまり乗らなかったな。頻繁に使うようになったのは、やっぱり羽田空港まで伸びてからだね」。

渋滞の深刻化が首都高速の建設を決める理由となったと言われているが、1960年代初めはまだクルマの数は少なく、一般道路もほとんど渋滞していなかったという。けれど、ひとたび乗ってしまえば信号で停められることのない〝ノンストップ道路〟は、クルマ好きの目に大いに魅力的に映ったようだ。仲間たちと一緒に首都高で羽田空港まで行き、クルマがほとんど停まっていなかっただだっ広い空港駐車場で夜な夜なジムカーナの練習をしていたという。いまとなっては考えられないことだが、当時のクルマ社会はかくも自由だったのだ。

1966年、トヨタから初代カローラ、日産から初代サニーが発売され、日本にもついに本格的なモータリゼーションが訪れた。その間、首都高速の建設も順調に進み、1967年には建設第1期の主要目標だった都心環状線が完成。総延長も48・3㎞まで伸びた。

「環状線の完成は大きかったよ。それまでは乗ったらどこかで必ず降りなくちゃいけなかったけど、環状線ができたことで周回コースをとれるようになったからね。目をつぶってでも運転できるぐらいに、徹底的に走り込んだなぁ。とにかくもう、クルマを走らせることが楽しくて仕方なくて、クルマ好きの友達と毎晩のように走っていた」。

当時を思い起こしながら懐かしそうに目を細める父。どうやら生まれたばかりの僕の世話を母に任せ、毎晩〝首都高上の人〟になっていたらしい。仲間の誰かがクルマを買ったときは、都心環状線を利用して慣らし運転を実施。交代しながら夜通し走れば、二晩で1000㎞の慣らし運転を終えることができたという。

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▶︎道路の上に国鉄が通り、その上に首都高を造る。これもまた新しい時代の幕開けの風景となった。


そんななか、カローラとサニーが牽引したマイカーブームによって都内の交通量は着実に増えていき、それと歩調を合わせるように首都高を利用するクルマの数も加速度的に増えていった。1967年には現在の約10分の1にあたるおよそ13万台/日程度だった通行台数は、翌1968年には20万台/日、1969年には33万台と大幅な伸びを記録。当然、都内では一般道の渋滞も増えつつあったが、もし首都高の整備が進んでいなかったらさらに深刻な交通渋滞が起こっていただろう。本格的モータリゼーション到来の前夜に、将来の渋滞を予測し、いち早く首都高の建設に着手した政府の判断は正しかった。

都心部の渋滞緩和というメリットに加え、首都高は日本の復興と発展を世界に向け印象づける象徴にもなった。1956年の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」という言葉は流行語にもなったが、それが意味するのはGNP(国民総生産)が戦前の水準を超えたことに過ぎない。世界が真の意味で日本の復興と発展を実感したのは、東京オリンピックが開催された1964年だろう。この年に開業した新幹線と、都市の中心部を縫うようにして走る世界でも希な立体構造の首都高は、訪れた多くの外国人の目に強烈な印象を残したに違いない。

その後も日本は驚異的な成長を続け、世界に冠たる経済大国に上り詰めた。それに伴い、人とモノの移動も爆発的に増え、首都高にも新たな役割が求められるようになった。
首都高の黎明期を採りあげた今回に続き、次回は首都高に課せられた新たな役割、すなわち「都内のネットワーク」から、日本全国に張り巡らせた各高速道路をつなぐ「日本のネットワーク」への転換について書いていく予定だ。

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text:岡崎五朗/Goro Okazaki
1966年生まれ。モータージャーナリスト。青山学院大学理工学部に在学中から執筆活動を開始し、数多くの雑誌やウェブサイトなどで活躍。テレビ神奈川の自動車情報番組『クルマでいこう!』に出演中。

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▶︎首都高開通後間もない、4号線「新宿」の風景。まだ新宿副都心の面影はない。


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