片山右京 常に熱くありたい

アヘッド 常に熱くありたい

F1ドライバーだった頃の片山右京選手は、思い込んだら一直線な人だった。少なくとも外からはそういう人に見えた。例えば1997年。この年は右京さんがF1から引退する年で、イタリアのミナルディに所属していた。フェラーリと同じように愛されたイタリアのチームではあったが、グリッド後方の常連でもあった。

上位チームと同じように一生懸命ではあったが、小規模なプライベーターチームだったので、間違っても優勝することはないとチームも思っていたし、応援する側も思っていた。

でも、右京さんだけは違った。自分を鼓舞するために「勝つ」気でいたのではなく、本気で勝つ気だったし、どんな厳しい状況でもプッシュしつづけた。ときにその強い気持ちが大きなクラッシュを誘発した。200㎞/hを大きく超えるスピードでコースを飛び出し、バリアまで一直線というような、モニターを見つめる誰もが息を止めるようなアクシデントを起こしたりした。

無事な姿を確認しようとパドックにあるモーターホームを訪れると、この世の向こう側をのぞき見たせいで、アドレナリンがふつふつと沸き上がった右京さんから怒声が飛んできた。「何しに来たんだ!」と。のこのことコメントを取りにやってきたと思ったのだろう。数時間後、「さっきは怒鳴ってごめんね」と右京さんは言った。

F1を引退してからの右京さんはしばらくは、山登りの人に見えた。アドレナリンがカーッと沸き上がる体験をしてしまうと、その体験が忘れがたく、自分を再び極限状態に追い込もうとする。そうでないと自分を保っていられないのだろう。外から見てそう思ったりもした。

それからしばらくして会った右京さんは、自転車競技の人だった。やはり外からは、自分を追い込んでいる人のように見えた。そうしてまたしばらく年月が経った。1963年5月23日生まれの右京さんは、51歳になっていた。50代のおじさんになった右京さんは、「僕はね、もうエゴは捨てたの」と言った。

自分を肉体的、精神的に追い込むのはやめた、ということだろうか。

「振り返ってみると、F1やっていたときのモチベーションって、お金がない、というくだらないコンプレックスだったから」
 クルマに乗るきっかけはオートバイ。オートバイに乗るきっかけは自転車だった。

「小さい頃、親父の影響で山をやってた。冒険家になりたかったから、自転車で(自宅のある相模原市から)相模湖に行ったり、江ノ島に行ったり、富士五湖を一周したり、東海道をひとりで走ったり。16歳になって免許をとった後は、CB50(ホンダ)とかRD50(ヤマハ)とか。ボアアップして走り回ってたね」

詳しくは書かないが、スピードに取り憑かれていたという。

「女の子と初めてつき合ったのもその頃だった。彼女をバイト先まで送って行ったんだけど、別れ際に胸が苦しくなってキスしてね。でもそれより、スピード出す方がもっとドキドキしたよ」

スピードへの欲求は短期間にエスカレートし、それからしばらくして時速200キロを体験した。アドレナリンがふつふつ……である。

「時速200キロを超えた瞬間の気持ちは、言葉では表現できない。これはやばい、転んだら死ぬと思った。マイナス40℃のヒマラヤでも同じような感じを味わった。F1でモナコを走るときは、時速300キロ近くでトンネルを抜けたりする。そのときは興奮するけど、それが目的ではないし、危険なことが好きなわけでもない」

1991

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1992

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1995

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1997

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1999

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2001

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2009

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基本は「コンプレックス」だと、右京さんは言う。お金がないから何もできない、という逆境への反発だ。

「筑波でチャンピオンを獲って(FJ1600筑波。1983年)鈴鹿に行ったけど、住むところがないから白子の砂浜でブルーシートを張ったり、捨ててあるライトバンの荷室で過ごしたりもした。ある工場の社長に、『オマエがいなくなっても世の中誰も困らない』と言われた。いま考えたらいじめだけど、そのおかげで『絶対に見返してやる』と思った。今は、そうじゃないってことは分かるけど、当時はお金がないから女の子にだって振られるんだって思っていたんだ」

 お金持ちになって世間を見返してやるのが、モチベーションになった。でもいざお金持ちになってみても、右京さんの心は満たされなかった。

「F1に行って、年収が何億にもなってモナコに住んでも、基本的には何も解決しないことが分かった。セナやシューマッハと一緒に走ってね、あいつらがミラーに映って後ろから迫ってくる迫力って、縁石乗り越えて逃げちゃいたいくらいすごい。普通の人には見えないんだけど、オレのおでこにはキン肉マンの『肉』みたいに『負』という字が書いてある。朝起きて鏡を見るたびに、その文字が目に入る。オマエはしょせん負け犬なんだと。一番ではないし、すごくもない。しょせんその程度の人間なんだと思い知らされた」

右京さんは34歳のときにF1を離れた。当時の状況を照らし合わせても、現在の状況から考えても早すぎる引退ではあったが、時速300キロを超えるスピードを日常的に体験しても、お金を手に入れても満足できないのでは仕方がない。

それで、山に向かった。

「子供の頃からの夢でもあったから、エベレストに向かった。頂上に立ったらミハエル(シューマッハ)に携帯で電話して、『やーい、オレはオマエより高いところにいるぞ。悔しいだろ』とでも言うつもりだったんだけど。きれいごとを言うと、エベレストに挑戦したことで、いろんなものが見えてきたんだ」

イギリスの遠征隊によってエベレストの初登頂がなされたのは、1953年5月29日である。右京さんが生まれるちょうど10年前のことだ。地球の長い歴史に比べれば、それからごくわずかな時間しか経過していない。

その間、多くの登山者が頂上を目指し、麓とベースキャンプ、ベースキャンプと頂上を行き来するうち、エベレストの環境は初登頂以前とは異なる様子になってしまった。世間を見返すつもりでエベレストに登った右京さんは、エベレストに見返されて降りてきた。

「F1だってそうだし、自分の仕事にプライドを持ってやってきたつもりだった。だけど、本当にそれでいいのかと考えてしまった。例えば、『強い』ってどういうことなのかと。重い荷物を持つことができるとか、ケンカに強いとかじゃなくて、本当は、どんなときにも人にやさしくできることだよなとか、そういうことを山に登ることで発見した」

エベレストの登頂にチャレンジしたのは2002年。その頃に〝強さ〟 の本当の意味を発見したのだけれども、強くあるべき自分を実践できるようになったのは50歳を過ぎてからだと、右京さんは言う。

「ちょっと前までは、いいクルマに乗っている人を見たら『いいなぁ』と思ったし、大きな会社の社長さんに会うと萎縮してしまう自分がいた。でも、いまは違う。大切なのは見栄を張ることじゃない。ふだんは走行距離が24万キロを超えるプリウスに乗っているけど、少し前まではそれが恥ずかしかったの。でも今はそれで、ものすごく幸せ。忙しいときは会社の床で寝るし、この10年くらい床屋に行かず、自分で髪を切っている。貧乏な生活を送っているけど、半面、ものすごく心が豊かになった。オレほど知り合いの多い人はいないと思っているし、生活に何も困っていないから」

地球のなかの、いや、宇宙のなかの小さな自分を知ったとき、物質的に豊かな人に対する反骨心をばねに自分を追い込む行為が、意味のないことに思えてきた。右京さんは「オレは終わった」と表現したが、それは自分を捨てるという意味ではなく、つまらないエゴを捨てたという意味だ。例えば、「いまから選手としてツール・ド・フランスに出場します」と宣言するような。

だけど、夢は捨てない。これにも補足説明が必要で、50代になった右京さんは、夢を追いかける若い人たちに「その夢を捨てるな」「一緒に叶えていこう」と働きかける。それが、右京さんの指す直近の夢だ。

「若い人たちが『お金がないから』とか『コネがないから』とか、若いくせに『歳だから』と言って、夢を諦めようとする。なぜかというと、まわりの大人たちがそういう言い訳を口にするのを聞いているから。誰だって、いきなり自転車に乗れないでしょ。最初は誰かが腰の痛いのを我慢しながら、後ろで支えてくれていた。それを忘れて、大人になると格好をつけたがる。恥ずかしいとか、笑われるからと理由をつけては、努力を怠る。いきなり逆上がりはできないし、いきなり50メートル泳げるようにもならない。努力しなければ、何ごとも始まらない」

1996

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2002

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2003

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2006

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2012

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といって、かつての右京さんがそうだったように、なりふりかまわずストイックに、一直線に物事にのめり込めと言っているのではない。

「大切なのは根性じゃない。崇高な思想より1%の行動が大事。歩きつづければ、エベレストの頂上にだってたどりつく。ただし、勘違いしてはいけないのは、ひとりでやってはいけないってこと。ひとりだとすぐに手いっぱいになる。人にはそれぞれ得意分野があるので、価値観を共有できる仲間を集めることが大事」

自転車を後ろで支える役に徹しているのが、現在の片山右京の姿である。F1や山登りや自転車競技のように、肉体と精神を酷使していた時期と対比させると、現在の生活は自己犠牲の上に成り立っているように見える。だが、「そうじゃない」と右京さんは言う。人生のステージが次の段階に移っただけなのだ。

「ものすごくシンプルな話。プレイヤーとしての片山右京は終わって、みんなを応援する立場になっただけ。それで自分が生きる世界を狭めたつもりはない。夢は捨てないし、チャレンジは続けていくよ」

SUPER GT・GT300クラスに参戦する『GOODSMILE RACING & Team UKYO』では監督を務め、チームやドライバーとタイヤサプライヤーやスポンサーなどの間に入り、チームやドライバーが能力を最大限引き出せるよう、「支え役」を買って出ている。

一方、Team UKYOの自転車ロードレースチームを次のステージに引き上げるための「支え役」も現在の片山右京のもうひとつの側面だ。

「ひとりだと無力だと思うかもしれないけど、無力じゃなくて、微力。その微力をたくさん集めてみんなでやると何でもできる。そのきっかけづくりが僕の役割」

日本では一番を目指すが、世界には「挑戦する」スタンスに徹するのが右京流だ。なぜなら、「人は強い者の言うことしか聞いてくれないけど、強い人よりは弱い人を応援したがる」という矛盾を知っているからだ。「50歳になるまで分かってなかった」真理である。

タガが外れたようにひたすら突っ走る人だった右京さんは、50代に入り、人の支え役を進んで買って出るようになった。その行為を通じて勇気をもらい、生きていくためのエネルギーに転換している。

「まだまだ道半ば。というか、これからスタート、という感じ」

そう、右京さんは説明する。

エゴは捨てたというけれど、筑波サーキットでアドレナリンの代わりにスモークをモクモクと沸き上がらせながらドリフト走行をかますこともある。右京さんのそんなファンキーな一面を見たファンから「すごい!」と言われると、「だろ?」とニヤけてしまうほどの茶目っ気は残っている。それを3セッション繰り返す体力はないけれど……。

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2014

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text:世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/

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